「元ヤン」批判

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元ヤンキーのほうが実は「自分」がない。すぐマネする。

なぜならば、「サービスを享受する」ということに対して、ヤンキーはすごく敏感、かつ貪欲だからだ。
常に「オレもオレも」そして、周囲の他人よりも自分のほうが過剰にサービスを享受している状況が、「ふつー」であり、他人のほうが「得して」いるように見える状態は、許せない。

なんだよコノヤロー、アイツ(ら)ばっかり。。 と。
「アイツ」や「アイツんち」ばかり得している、あるいはお得な情報を持っている、というウワサレベルの情報網に、被害妄想的に敏感だ。

つねに「損か得か」で人生を考えている。

そんなとこにばっかり人生のパワー使って、どうすんだろうね? と、思うけど。。

他人のマネをしたり他人の情報を奪ったりして、自身を高める努力をホント、しないから。。




元ヤンは、注文のとき「オレも」「あ、オレも」というのがけっこう、多いと思う。
でも実は、元ヤンだけじゃなくてね、注文のとき「同じで」「ふたつ」「みっつ」。。
っていうのが最近多いなあ。

「オレも」と「同じで」と何が違うか。。後者は流行りの「草食系?」
「オレも」は積極的、胸はってる感じ。「同じで」は消極的、追随という感じがする。。

オレもオレも、というのと追随は相当違う。



元ヤンって人生のトータルで継続的にカネ持ちなヒトっていないからね。一時的にバブルでカネ持ちになることはあるけど、調子こいてすぐ身を崩すから。。

カネを持つ器じゃないときに一瞬、カネ持っちゃうからね。。

そして、それを酒のサカナに、一生生きてゆく。「オレもムカシは。。」と。
ヤンキーで、暴力で相手が従っていたほんのわずかな期間。
バブルで、カネをバラまいて相手が従っていた、これもほんの一瞬の期間。

ふたつあわせても、人生の中のホントに、「瞬間」といってもいいぐらいの短い期間である。
それ以外は、常に他人を羨み、自分を高めない人生。。


「元ヤン」からもさらに卒業しないと、はじまらないんだよ。過去の栄光(? ホントは栄光ですらないんだけど)にいつまでもすがってちゃいけないんだよ。
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ムダなコトバたち(健康)

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オリゴ糖だの、ビフィズス菌だのから始まって。。

そういう健康関連の「キーワード」に現代人はホント、詳しくなりましたね。。
「豚インフルエンザ」だの「DHA」だの。


こちらがいらないといってもマスコミがそういうキーワードをものすごい勢いでプッシュしてきます。


現代人は記憶しているキーワードの量は増えましたが、それぞれの意味はほとんどわかっていません。
「キーワード文化」。。

うわっつらだけしか把握していない。いや、うわっつらだけしか把握する気がないのですね。詳しくは別に知る気もない。

とりあえず、マスコミで飛び交っているキーワードだから、おさえておけばいい、と。


ムダなキーワードばかり脳みそに蓄積され、脳みそが圧迫されてゆきます。

なぜムダかというと、そういうキーワードを知っていても日本人はこれっぽっちも、健康になっていっていないからです。
ですから知ってもムダなのです。


警鐘を鳴らしたいですね。周りが不健康になってゆくのは、僕も困るのです。たとえば仕事のメンバーが休みがちになるとか。。
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自給自足、地産地消、などなど、最近、何かの反動で一種のトレンドになりつつあるこのような生き方がホントにいいのか?

思考停止していないか? と、考えなければいけないような気がしてきた。


自給自足し、地産地消する生き方というのは、結局は、ゼッタイに「表舞台に出てこない」ということだ。その地方の人生で完結するサイクルである。

ホントはそうじゃないんだろ? 地方で、そういう生活をしている自分を、ホめてほしいんだろ? ちやほやしてほしいわけだろ?

そういう生き方をひっさげてマスコミに登場したいんだろ? マスコミにとりあげてほしいんだろ? とりあげてもらうようひそかにインターネットを使って「発信」し続けるんだろ?

その地方で消費されるのであれば、その地方の「マス」でないコミュニケーションのみで拡がればそれでいい話だ。
確かに、地元の人間には買ってもらわなきゃならないから宣伝は必要だ。でも逆に、仮にその地方以外から「押し寄せる」ようになったら意味ないだろ? それは地産地消じゃないだろ?

でも、実はひそかに「押し寄せる」を夢に描いている。。この矛盾。
地産地消だなんだって誇らしげに謳う業者や個人は、こういう「自己葛藤」まで思い至らんだろうな。


無条件で、そういう「エコな」生き方を称賛し、さらに実践まで踏み出してゆくヤツらって、まァその行動力は評価されてもいいと思うけど、
そもそも名誉欲を抑えるつもりはあんのか?

エコに生きるってことは名誉欲も捨てるということだ。名誉欲も都合よく残したいのであればエコに「逃げる」という表現がぴったりだね。

でもエコってのは逃げるもんじゃねーだろ。都会が疲れたからって田舎に逃げんじゃねーよ。
そして、田舎に逃げたら「やっぱつまんない」とかいってゼッタイ都会に戻ってくんなよ!?
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サラリーマン社会はね、退路を絶たれたおっさん連中が支えてんだよ。
退路を絶たれた、ってのはね、家のローンを35年抱えてしまったとか、コドモの学費とか。。

もう、働くっきゃないんだよ。文句いいながらも。

だから、おっさんたち(「働き盛り」)がこの日本そのものを支えてんだから、暖かく見守ってやれよ、と。
せめて、モチベーションが下がらないぐらいに。

別に、ホメておだててくれなんていってないんだから。せっかくのやる気を削がないようにしてくれよ、ということ。


サラリーマン社会は決して、20代の若手だの、ハケンのネーちゃんによって支えられているわけではない。

そしてこの世の中は、洗脳を仕掛けるマスコミと、それに群がる若い世代が支えているわけでは、断じてない。


女性はこの世の中を支えているとは思えない。その言い方が極端すぎるってんだったら、支えているのは退路を絶たれている女性だけだよ。

たとえば、実家にいたり、旦那もそれなりに稼いでいて余裕があったりするヒトは、サラリーマン社会においては「取り巻き」にすぎない。

そのヒトに実力があるかどうかなんて関係ない。退路を絶たれてなくとも仕事できる女性はたくさんいるだろうが、そういうヒトたちはサラリーマン社会における「アドバイザー」にすぎない。どうせいつかいなくなる。退路を絶たれていないから、サラリーマン社会はただの腰掛けにすぎない。

仕事をやる気があってもなくとも、サラリーマン社会を腰掛けとしか思っていない連中は中枢ではない。支えてはいない。


専業主婦も同じ。退路を絶っているか? 旦那コドモと心中するぐらいの覚悟をもってるか?

サラリーマン社会からドロップアウトしてきた派、ラクできそうだから主婦になった、なんてのは論外だと思うけど。
いや、その人生を認めないわけじゃないけど、そういうヒトたちはおっさん連中がうごめくサラリーマン社会に口を出す権利はまったくないだろ、ということ。
おっさん連中が平日、死ぬ気で働いている日中、せいぜい井戸端会議に専念していてくれよ、と。サラリーマンのモチベーションが下がる言動は決してとらないでほしい。
オイラはムカシから、「良い店」に行きたい、カネを落としたいと思っている。良い店の条件は、アタリマエのことなんだろうけどおいしい料理、酒、そして雰囲気、サービスなどによる総合点になってくる。

その総合点が高いのであれば、それなりにカネを落としてもよいと思っている。


ところで、サラリーマンは、幹事さんに対して「良い店見つけとけよコノヤロー」とか鼻息荒いんだけど。。
そこでいう「良い店」というのはつまりは、「良い居酒屋」なんだよね、結局。
サラリーマンの身の丈にあった。

その意味合いの中には「安い」というのももちろんあり。。

「安い居酒屋」の範疇での良い店でありそれ以上の冒険を求めていない。

それ以上の店をセレクトしちゃうと。。「オシャレすぎる」「料理が少ない」とかね、ブーイングの嵐になってくる。


僕が行きたい良い店というのはある意味「チャレンジ」なのであって、せっかくカネを落とすのであれば身の丈に合った店ではなくて、背伸びしてやっと、みたいな店に行きたいものだ、と思っている。

身の丈に合った店なんて結局似たり寄ったりだ。せっかくカネを落とすんだったら、日常からちょっと離れた空間にいきたいよね。

と、思うんだけど、世の中のどっぷり「サラリーマン」の方々とはちょっとだけ、考え方がズレる。。
肉を筆頭に、動物性たんぱく質を過剰に摂取しなければ、カロリー消費、すなわち運動をそれほどする必要はないのです。
日常で身体を動かすレベルで十分です。

そもそも、現代日本人の「ふつー」の食生活ですでに動物性たんぱく質は過剰に摂取しています。そして、カロリーはデフォルトで高すぎなのです。


肉を食べるとそれの3倍の野菜摂取が必要だ、といわれていますが、それも面倒くさい。肉の「解毒」として野菜が必要だというのであればいっそのこと肉をやめたほうが面倒くさくないのです。

肉とか、ひいていえばグルメ嗜好をやめられない、という意見もわからないでもないのですが、ホントはカンタンにやめられます。僕はそれに、ようやく気付きました。だいぶ時間がかかりましたが。。

「食べること」というのは実はそれほど大切なことではないのです。でも生きるためには食べることは必要。。
逆説的なようでまったくそうではありません。

食べるのは「サブ」でよいのです。そして、食べるのはルーティンに組み込めばそれでよい。
たとえば、朝飯昼飯は毎日同じでもよいのです。生きてゆくために必要な栄養を、摂取すればそれでいい。

僕たちは、食べることだけじゃなく、やることがある。人間としてやらねばならぬことが、たくさんある。食べることやグルメがプライオリティNo1にくる人生は、どうもさみしい。いや、「悲しい」ですね。

我々が考える「粗食」でぜんぜんOKなのです。ただし、粗食の中にも旬のものをとりいれる、ということが大事。野菜果物、そして魚。。
そう、動物性たんぱく質はどうしても摂りたいのであれば魚がよいでしょう。


旬のものを食べる、逆にいえば、年中同じものを食べ「させられない」というのがグルメにおける贅沢なのでしょうね。
僕は、贅沢な人生を送らなくともいいと思っているので、ハウス栽培で年中同じ野菜が供給されるようになり、かつ安価で買えることを歓迎しています。

「旬」を贅沢にとりいれるのはもう少し歳をとってからでいいかな、と。


ところで僕たちは、年がら年中米と、そして小麦(つまりはパン、うどんなど)を食べられることすら奇跡と考えるべきなのかもしれないですね。
スポーツ批判シリーズ。第何弾か忘れました。。

スポーツというのは、他人、他チームとの勝負にこだわっている時点で全く「健康的」とは言いがたいです。

「スポーツそのものが健康的でない」という意味と、「スポーツに携わっている人間は健康的でない」という意味と、ダブらせています。

僕が考えるスポーツというのは、個人であれば「喧嘩」、地域間の勝負であれば「紛争」そして国家間になれば「戦争」ですね。

やはり国家代理戦争、ルールのある喧嘩、というのは言いえて妙です。

僕のスポーツに対する違和感の根っこはそこにあるような気がしています。

草野球をしたい、草サッカーをしたい、っていうのは、独りじゃなにもできないから集団になって他チームと喧嘩しにいきたい! という潜在的欲求があるのではないか、と思います。

ただし、それが「アスリート」の領域に入ると途端に「自己研鑽」の要素が強くなってゆくように思います。

なんとなく、ですが「アスリート」はそれほど勝負にこだわっていないような気がしています。

そして、アスリートは「孤独」。。

僕はアスリートに対しては肯定的ですが、アスリートは「スポーツ」よりももっともっと「健康」からは遠く離れてゆきますね。

なぜならば、「ストイック」だからです。
以前、もうだいぶ前になるけども、NOVAとかいわゆる「お茶の間留学」が流行り。。
就職や転職においては「バイリンガル」がもてはやされ。。(そして、実際、モテましたね。帰国子女とか。。)

でもそのブームも、どこかで(数年前)収束したよね?
僕の記憶では、そういうブームが過ぎた後、その反動で「英語ができるから、何?」という風潮が盛り返してきたと思う。

別にそれは右寄りとかそういうイデオロギーはぜんぜん関係なく。自然な流れとして。

「英語を使える」ことだけがもてはやされた結果、英語を話せるだけの薄っぺらい人間が増殖して、そういう人間がたとえば企業の要職に就いたはよいが実務方面でまったく役に立たない、という状況がビジネス・シーンのいたるところで勃発したから。。

やっと、英語というのは単なるツール、スキルのひとつであるということに、ビジネス・シーンが気付いた。

そういう流れになったのが、何年前だったかなあ。10年前ぐらいになってたかなあ。


仕事もできてその上さらに英語ができるんだったら、別にいいんだよ。

で、英語しかできないヤツが、「外国人とゼッタイに接する下層労働」に従事するのであれば、それもよい。歓迎されるべきことだ。
フロントで外国人を受付するハケンも同じようなもんだ。


英語ができるというだけで、要職に重用されるという状況に対して、じわじわとNo!が突きつけられてきたということだ。


でもなぜか不思議なことに。。ビジネスにおいて、英語「しかできない」人間のボロが出始めているにもかかわらず、小学校から英語を教えるという流れは促進している。

この流れは、不思議ではあるのだけれど。。

英語が、one of themの「ツール」としてはますます重要視されてきたということなのだろう。特に、英語の中でもspeakの部分ね。

小学校から英語を教えるというのはオイラはOKだと思う。なぜならばそれは、国家戦略だからだよ。(たぶん)

21世紀はますます世界において英語が共通語になってゆく。だから、日本が今後ますます対等に外交するために、日本人が外国で、英語で堂々としゃべるための訓練は必要なのだ。

しゃべるためには、「実」がいるわけだ。日本人として主張したいことを、英語でしゃべる。そのための訓練。

ぺらぺらと英語だけしゃべれて、実のないことを外国に向けてぺらぺらとしゃべり、日本人は実がないなあ、と思われるのは、オイラはイヤなんだよ。

あるいはみょーに外国に迎合しているとか。

(こういう考え方って、すごく自然だと思うんだけど、ホントにこれが「右翼的」なのだろうか?)


英語というツールを学ぶということはイコール「アメリカナイズ」ではないのだ。
日本人はやっと、そういうことに10年前ぐらいに気付きはじめたということなんだろうなあ。
子育て最前線にいると。。

今更ながら、「人生、まさに本番中」なのだなあ、と。。

本番中だからもう間違いは許されない。周り、すなわち「観衆」もみています。

もう(やっと)人生という舞台に上がってしまったのだなあ、と。。

僕は、2人目のコドモが産まれるまで、認識できませんでした。


もう、「青年」ではないのです。
我々は、本番の舞台にいますが、幕間にはコドモらを、本番舞台に耐えうるように育てなければなりません。

そう考えると人生は「演技」なのだなあ、と。。
演じたとおりに展開してゆく。

素でいられるのは、独りでいるときだけです。家の中で、家族の前で行っていることすら「演技」なのですね。

家族の前ですべてをあけっぴろげて「素」でいるのは間違っています。
子育ての「勘所」を知っているヒトはうらやましいとは思いますが。。

たとえば、ふだん家でだらっとぐーたらしていても、いざというときはビッとして、それによりコドモも信頼を寄せて従い、自分の親に誇りを持ち続けることができる、と。。

その「勘所」がまったくわからない僕は結局、ふだんからずーっと家で、そしてコドモらの前ではびっとしていなければならないわけで。。
抜くところがわかっていないのですね。家でも職場でも緊張を強いられ、結局、付近の公園とかでビールを飲みながら「抜く」ことになります。


コドモに弱みをみせてもいいんだよ、という考え方がよくわからないのですね。
なぜなら、子は親を見て育つというではないですか。


以前書いたかもしれませんが、この人生というステージは「本番」だと思っていますので、職場も家庭も「本番」。そして、独りでいるときが「幕間」なのです。

ただ、この幕間でも、読書をするなど、自己研鑽が必要になってきますので。。なかなか「だら~っと」する時間は見当たりませんね。