▼本文の前に-------------
さて、今日は「拒食と過食を受け入れる」ということについて私なりの解釈を書いてみようと思います。
長くなるので少しずつ分けて書きます。
今日はその1です。
「拒食と過食、 無理してでも痩せたい気持ち を受け入れる」
って、これ医者もそんなこというし本にもよく書いてある言葉です。
当時私ね、この言葉を間違って受け取ってしまって、「そうか!やった!」とばかりにあらゆる努力を放り投げてしまった時期があったの。
だけど、それやって、過食や拒食の快楽や安心感とひきかえに得られた物は、、どんどん酷くなる体調とココロの欝。
何で?受け入れてるのに??
ってわけが分からなかった。
試行錯誤で気付いたのは、基本的な努力は放り投げていいわけじゃないんだ、ってこと。
いろんな自分の心の癖に気付き心をラクにしていくこともその努力の一つ、なのだけど、食事で体を満たすことや運動をラクにすることも、そのひとつだよ。
たとえば、食べることは太ること、カロリーは太る要素、夜たべたものは脂肪になる、・・・などなどのように、
「絶対だ!」と信じてる「×」の情報ばかりになってる脳に、必ずしもそうじゃなかったんだ、食べていんだよ~っていう
「○」の情報をいれてあげるのも、
体重計に振り回されるくらいなら「のらない」と決めるのも(乗っちゃいけない、じゃなくてそのときその人により、安心できるなら週に一回、二回、 月に一度でもOKって私は書いています)
「痩せなきゃ」「食べちゃダメ」って苦しい思考から楽になるためにやったことはすべてあれも努力の一つだったと思っています。
怖い食べ物は誰かと半分ずつ食べてみたり、少しずつでも「(※)バランスよく食事をする」ことも、「自分に今できること」としてやってみるときもありました。
(※)このブログの ”バランスよく” というのは、栄養素差別をしないで食べるということ。ですが、最終目標は「体の声を聞いて食べる」ことができるようになること、ですのでそのあたりは他のページをごらんください)
一つやったら大きく変わることはなかったけど、差別いっぱいあってもある程度食べることができるようになると、脳の回復もついてくるのでちゃんと自分のための判断ができるようになったり、気持ちがち楽になるのも感じるようになりました。
一つやったからって「すぐに」症状が止まらなくてもその努力は決して無駄じゃないのです。
私も心のこと、体のこと、色々ブログにかいてきているけど、それ、何年もかけて少しずつやったんだよ。
治るときってほっとけば自然に治るってわけでもなくて、
これならできそう、ってことは勇気を出してみる、それに慣れたら次の勇気を出す・・って感じ。
できない時はできない。
できないことはできない。
それもそれでいいの!
できないコトは後回しでできることから、
できないこともハードル下げて
できる工夫を見つける、
食べることが無理ならココロから・・でもいいのです。
その一つずつの勇気が、ふっとでやすくなるように、
これからお話する「過食と拒食をうけいれる」という考え方が
すーーごく大切だったのです。
なぜなら、摂食症状だけ直接どうこうしようとする努力ばかりやってても、結局いつも負けちゃうから。
絶対に悲しみが付きまとう、拒食や過食嘔吐で得られる
一時的な安心感と誘惑に。
そんな事しても快感はその時だけで、心も体もしんどくなることがわかってるのに、やっぱりやってしまうのはなぜ?私が甘えているから?
いや、それはそうじゃなくて、拒食や過食嘔吐は苦しいけれども
自分を支えるために必要だったから。
何で必要だったかというと
食や外見を奪ったら、
私という人間の中には
何もない、空っぽだ、って
思っていたからです。
後日それは「見えなくなっていた」だけ、ということに気づくのですが、
自分のコトがわからないから、
何にもない、と思っているから、
外見が「重大事」になっていた。
外見だけが私の「入れ物」ではなく
私の「全て」になっていたから
太ることが以上に「怖かった」。
だから、ふつうの女の子の、太りたくない~ってもんじゃなくて、太ることが「恐怖」になっていたのです。
そんな自分の気持ちに気づいて私はこう思いました。
普通の人だって、
中身が空っぽなんて恐怖があったら、
外見に固執してしまうのではないか?
って。
今までは そこをそのまま放置していたから、他のあらゆる努力が 必要以上にしんどいものになってしまってたのではないか?って。
たとえ食の改善を頑張って、体の反応としての過食欲求が
マシになったとしても、心がそのままだったら、食とヤセの一時的安心感に引きずり戻されてしまうのではないか?
摂食障害十数年目にやっとそんなことに気付いて、気持ちを切り替えました。
摂食障害の症状はすぐに止まらないのも当たり前だから、症状だけを今すぐ止めようとするより、症状(太るのが怖い心や、拒食や過食)と暫くは付き合いながらでも、
食や体型以外で、私は大丈夫っておもえるものをどんなに小さくても見つけていこう。
こう、決めたんです。
摂食行為が普通になってから○○する、普通にならないと○○できない、・・って先延ばしにせず、今からでもできる”ラク、楽、心地いい”って感じるものをダイエット以外に見つけていこう、
って。
↑↑
これが摂食障害を
「受け入れる」という事です。
治ってから・・って考えてたころは、結局、ずっと何もできなくて何も変わらないで何年も過ぎていっちゃってた。
症状をいきなり止めよう、やっつけよう!って戦ってばかりだと、出来ないことに罪悪感を持ったり落ち込んだりして
そのストレスからまた無理してでも痩せたくなったり
過食がひどくなったり…Orz
探してみれば、したいことのなかから痩せたい食べたいの症状がある今の自分でも出来そうなこと、実行にうつせそうなことはあるものでした。
”やせたら”
”治ったら”
~できるのに、
・・今の自分からお預けにするのではなくて、
一日に5分でも10分でも、
いけそうなら30分でも
今ここの自分にできそうな快はないかなって。
急に大変身しようとするから、できない!!やっぱりだめだ!!!って辛くなって投げ出してしまのだから、小さなことからでいいんだよ。
人に認められるために、ばかにされないために、オカシイダサいといわれないために。。って他人軸で考えて導きだした”やりたいこと”はしたいことだと間違得やすいけど、だいたいそれは他者の評価のために”しなければいけないこと”だったりする。
だからそうではなくて
世間や他人や親がなんていおうとも
私はこう感じる、
私はこういうのが好き・嫌い、
って感じることに目をむけていくの。
私の時も少しずつ、自分の中に他人や人がどういおうが自分はこう、って思える中身を感じられるようになるうちに
自分の入れ物(体型)への執着は減り、食にたいする執着も少~しずつ、ほんとに少しずつだけど、薄れていったんだ。
そのうちに、いつか
無理に痩せることも過食で生き辛さを曖昧にすることももう必要ないな、面倒だな、止めておこう、って意志が通じる日がやってきました。
***
摂食障害のときは、体型や体重をとったら自分は何もない、価値がなくなる、と思っている人は多いものです。
だから、そんな自分だって痩せていれば少しは自信が保てる気がしたり、ばかにされない気がして
ダイエット以外の全てを犠牲にしても
とにかく痩せてから、やせなくちゃ・・
とダイエットをするのですが
そういうのは自信”ふう”偽物だったと思います。
だって、それで一瞬痩せて自信がついた気がしても「無理して痩せてないとこの自信はなくなる」と瞬くまに恐怖に支配されることになるので
「ありのままの自分でいいのだ」
という自信(自己肯定感)は
どんどん希薄になっていくから。
では、希薄になった自己肯定感を上げるためにどうすればいいのか。
色々あるけれども、まずは「ダイエット100%の生活で分からなくなった自分を知ること」これだと思います。
ダイエットだけではなくて、おそらく小さいころから、周囲を伺い、何をどうす”べきか”で生きてきた人は(私もだったけど)、もっと、自分を満たす選択肢=”心地よいこと、好きなこと”が分からなくなっていると思います。
だからこそ、これから時間をかけて、
どんな物が好きで
どんなことが嫌いなのか
何を見てどんなものを感じて
どう感じる人間なのか知っていくのです。
そのうちに痩せた時だけ一瞬感じる自信風のはかない感情と違って、人の評価や体型次第で変わらない、本当の自信はついてくるから。
ここでの自信の意味は
人と比べて何ができるからなどの
条件付の自信とは違うよ。
人がどう思おうと
私はこう思う、こう感じる、
こういう人間なんだ、、という
自分の芯=自芯のこと。
人や世間に認めてもらえそうな「形」を整えれば自信がつきそう、という条件付の自信は他人の評価次第で崩れてしまいますが
自芯は、そのようなことがありません。
だから私も そういう自分自身=自芯=自分軸を、見つけていこうって思った。
そのために、
まずは自分を知っていこうって。
でも、そんな事いったって、そんなものすぐ見付かるわけじゃないし、みつかってもそれが自芯になるほど大きく育てていくには
どうしたって数年かかるから、
「だからできない!やらない!」
って思ってたんだけど、それはちょっと違うぞ、って思うようになったの。
食の改善も大切だけどそれ”だけ”をがんばっても、結局、心の状態が「ヤセる一瞬の安心や優越感や過食嘔吐の一時的な快感自分を支える全て」のままだったら
私、一生苦しみを伴う痩せや過食に救いをもとめては苦しむ、
その悪循環から抜け出せないって思ったんだ。
だからこそ、
なかなか今日からやめる!ってわけにはいかないカロリー計算、拒食、過食、嘔吐、過剰運動なども否定するのではなく、うまく付き合いながらも、楽しめること、考えよう、って思った。
ただここで注意したいのは
楽しいこと、したいことっていっても
仕事とか勉強とか資格をとるとか、
そういうことじゃないよ。
最終的にはそうなる人もいるかもしれないけど、結局その目的が
「人に評価されるため」
「誰かにかっこよく見られるため」
「人にすごいね~っていわれる評価、勝敗や損得、結果を得るため」
・・などのように、自分ではなく他者中心になってたら、それ、また同じことの繰り返しになっちゃうので気をつけてね。
それだと、そもそも自分がしたいことじゃないから辛くて仕方がないそ、やっぱり無理してないと何もできなくなってしまう気がするし、
なんとか結果を出しても、”無理してるから認めてもらえるんだよね”としか思えず全く自芯にもならないし心も満たされない。心は磨り減る一方、頑張ってるのになぜか満たされない。。
となっちゃって、
その空虚感を埋めようと、ヤセと過食の安心を求める欲求(症状)が強くなる、という悪循環。
になってしまう。
だから、○○すべき(と頭で考えること)じゃなくて、好きだな、心地いいな、ラクだなあって”感じる”ことに意識を向けてみてほしい。
”こんなコトしたってどうせ”とか
”人に言ってカッコいいものがいい”とか
”人や他人がダメ、ださい、オカシイといった”
などの”考え”(頭)で
資格やら勉強やらも●●したいな、って気持ちが育っていく過程で、もっと深く学びたい、学校に行きたい、職業にしたい、資格をとりたいって気持ちが出てきたらやればいい。
私も、肩書きばかり気にして何とかかっこつけようとして色々行動してみたけど、
そもそもしたいことじゃないから苦しくて、また苦しみつきの摂食症状で得る一瞬の痩せる安心・食べる快楽に助けてもわずにいられなくなる
・・・その繰り返しでした。
好きなことをしているつもりでも、これをしていれば人にカッコいい、正しい、すごいと人に思われるだろう、これば逆にばかにされてしまうだろう、って他人軸に戻って、好きなこと(趣味やら仕事やら)を選んでるときもありました。
それだと、そもそも本当にすきでやってることじゃないから、やたらと予定を入れて忙しくして、一時的に異常摂食行動が止まることがあっても、忙しくなくなったとたんに再発してしまうのです。
が、それを繰り返しながらも、”あ、またわたし他人軸の考えになってたな”って、気づいて”自分が感じること”に戻って、起動修正できるようになっていったので、私には必要な失敗だったんだと思っています。
好きなことって、最初から、
やりがいのある仕事!とか
人にこれが趣味って言えるもの
~とかでなくていいんだよ。
身近な事、いつもの日常でやってること、、五感を使ってそれが心地よいか、そうでないか好きか嫌いか、一つずつ感じていくことからでもいいと思う。
家族とのんびり過ごす時間が好き、
太陽の下をお散歩するのが好き、
香りに興味があるのならアロマもよし、
音楽好きなら心が震える音楽の選択肢を用意する、、
そういう全身で感じる快を丁寧に自分の感覚に聞きながら、心地よいもので自分を満たしてあげるの。
そういう”感じる快”は、人や世間の評価がなんて言ったって、自分がこれが心地いい、これが好き”と感じることには、正解も不正解もないから、他人や結果次第で崩れ去らない快になるのです。
まだまだ書きたいことはありますが長くなるので今日は、この辺にします。
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>拒食と過食を受け入れる~その2
>拒食・過食を受け入れる~その3
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