いじめ問題。

 自分がかつていじめられた立場だったから、未だにニュースを聞くたびに感度が高くなる。そして、嫌な記憶がよみがえり、思い出し怒りの感情が沸き立ち、自分の中に怖ろしい衝動が疼く。

 今年も各地で小中高問わず、いじめ、そして自殺という最悪の末路を辿る子どもたちのニュースが伝えられる。そして、関わった大人は口をつぐむ。

 いじめに遭い、心を傷つけられ病んだ子どもたちは誰を頼ろうとするか。

 大人の多くは、このことに思いを巡らせているだろうか。いや、芯から想像できるだろうか。

 糺したくなる。

 最近、茨城・取手で`15年に起きた当時中学3年生の自殺では、まさに、問題に対峙すべき大人が重大なエラーを犯していた。市教委は、当人の自殺と生前に遭ったいじめとの関係を否定する議決を出してしまった。それ以前には、教師側がいじめを認識できなかったことが伏線にあったし、さらに学校で起きたトラブル(ガラスを割ったというもの)ではとばっちり的に連帯責任を問われたともいう。一体教師等は、自らの立場を何だと認識していたのか。

 そのご両親は、先に述べた市教委の議決などに不信を深め、県に訴えるに到った。そうして自殺に追い込まれた過程が白日の下に晒された。これに3年を要していた。ニュースで観た、自殺された中3生のご両親の無念の思い、必死に抑えても抑えきれずにいる怒り、憤りの深さがこちらにも伝わって、いつしか自分も身震いを禁じ得なかった。

 野田市での小学生の虐待死事件でも思ったが、大人は子どもたちの尊厳を、遺影にならなければ解らないのだろうか。

 この事件に関して、少しでも自らを省みるゆとりがある教育関係者は一同で御霊前に合掌をすることを怠ってはなるまい。そうでなければ、前途を自ら絶ってしまった子どもたちが浮かばれない。