誰にも見せない素顔のまま過ごす日に、Yunth生ビタミンCがそっと寄り添った話

Yunth生ビタミンCで透明感ある肌に

今朝の空は、冬の青っていうより、薄いグレーの膜を一枚かぶせたみたいな色で、ベランダに出た瞬間、冷たい空気が鼻の奥にスッと入ってきました。

 

洗濯物を干すほどの元気はなくて、代わりにシンクに溜まったコップを洗いながら、窓ガラスについた小さな水滴をぼんやり眺めていました。

 

こういう朝って、何か悪いことが起きる予感はしないのに、なぜか「今日もちゃんとできない気がする」だけが先に来るんですよね。

 

たぶん、ちゃんとできないことを予告しておくと、あとで傷つかずに済むから。

 

コートを羽織って、玄関の靴を履こうとして、そこで足が止まりました。

 

玄関の隅に、宅配の小さな箱がふたつ、きれいに積まれていたからです。段ボールって、置いた瞬間から部屋の空気を変えるんだなと思います。

 

まだ何もしていないのに、「やること」が増えた感じがして、息がちょっとだけ浅くなる。

 

一番上の箱には、うっすら見覚えのある文字があって、私はその場で、ちょっとだけ視線をそらしました。Yunthの「生ビタミンC 美白美容液」。

 

 

 

 

たぶん数日前、夜のテンションが変に高かったときにポチって、翌朝「買ったんだっけ?」って思い出したやつ。

 

スキンケアの話は今日はしないって決めているのに、箱だけは容赦なく生活の中に存在していて、私の「やる気」と「放置」の境界線に、勝手に立ってくる。

 

そして今日、起きた小さな出来事は、すごく小さくて、でもたぶん、私にとっては妙に刺さるやつでした。

玄関で、知らない人に生活を覗かれた気がした

昼過ぎ、仕事のミーティングが立て続けで、頭がずっと熱いまま、インターホンが鳴りました。

 

荷物が届く予定はある、でも、受け取る余裕がない、みたいな中途半端な状態のまま、私は画面越しに「置き配でお願いします」とだけ言いました。

 

数分後、ドアの外で段ボールを置く音がして、配達員さんの足音が遠ざかっていく。

 

いつもならここで「ありがとうございます」って心の中でつぶやいて終わりなんですけど、今日はなぜか、すぐに取りに行けませんでした。取りに行けばいいのに。

 

たった数歩なのに。なのに、私は椅子から立ち上がることすら面倒で、画面の中の会話に合わせて相づちを打ちながら、「あとで…」と先延ばしにしました。

 

会議が終わって、ようやくドアを開けたら、そこに荷物が増えていて、玄関の隅の箱が、三段になっていました。

 

まるで“私の生活の遅れ”を、段ボールが可視化してくれているみたいで、ちょっと笑えました。笑ったのに、同時に、背中のあたりがひゅっと冷えた。たぶん、誰かに見られた気がしたんです。

 

実際、見られたんですよね。ちょうど隣の部屋の人が外に出るタイミングで、私がドアを開けた瞬間に目が合いました。ほんの一秒。

 

挨拶して終わり。相手は何も言わない。私も何も言わない。

 

なのに私は、その一秒の間に、相手の目が玄関の段ボールに触れたような気がして、勝手に恥ずかしくなりました。

 

別に、悪いことじゃない。通販なんてみんな使う。段ボールが玄関にある家なんて普通。わかってる。

 

なのに、なぜか胸の奥がザワザワして、ドアを閉めた瞬間、私は急に小さくなった気がしました。

 

「私、なんか…暮らしが雑に見えたかな」

その瞬間に浮かんだこの本音、たぶん誰にも言わないやつです。

 

たった箱が三つ積まれただけで、他人の目を勝手に借りて、自分の生活にダメ出しをする。

 

ほんと、面倒くさい性格だなって思います。自分でも思うのに、やめられない。

 

たぶん、ここがポイントで、私は段ボールが恥ずかしいんじゃなくて、「段ボールが積まれる生活」を、うまく説明できないのが恥ずかしいんだと思います。

 

忙しいから。

 

疲れてるから。

 

合理的だから。言い訳はいくらでも作れるのに、どれも本当の理由に触れていない感じがして、結局、黙るしかなくなる。

 

「わかる…」って思う人、たぶんいると思うんです。ちゃんとしていないところを見られたわけじゃないのに、勝手に“見られた気持ち”になって、ひとりで落ち込むあの感じ。誰も責めてないのに、自分だけが自分を責める、あれ。

 

 

 

片づけじゃなくて、“言い訳”を整理したくなった

夕方、ゴミ出しの時間が近づいて、私はようやく玄関の箱に向き合いました。

 

開ける、とか、収納する、とか、そういう「ちゃんとした行動」をする気力はなかったので、とりあえず箱をひとつひとつ持ち上げて、重さだけ確かめました。

 

軽い。

 

中身はたぶん小さい。つまり、緊急性は低い。

 

なのに、存在感は高い。ここがまた嫌なんですよね。やらなくても困らないくせに、視界に入るたびに心を削ってくるやつ。

 

私は箱を積み直しながら、なぜか自分の中の“言い訳”の棚卸しをしていました。

 

忙しいから。


寒いから。


気分が乗らないから。


あとでやるから。

 

全部、正しい。

全部、今の私にとってはリアル。

 

だけど、その正しさの奥に、もうひとつだけ、手触りのある理由がある気がして、私はそれを探しました。探してしまうんですよね。

 

理由が見つかれば、今の自分を少しだけ許せる気がするから。

 

たぶん、私は「始めるのが怖い」んだと思いました。

 

箱を開けるって、すごく小さな“開始”じゃないですか。

 

届いたものを生活に迎え入れるって、ちょっとだけ自分を変えることでもある。新しいものを使い始めるのって、気合いがいる。失敗したくない。

 

続かなかったら嫌だ。期待してがっかりしたくない。変わらなかったら、落ち込みたくない。

 

だから私は、箱のまま置いておく。箱のままなら、まだ「可能性」の形をしていられるから。使ってしまえば、結果が出る。良くても悪くても、“現実”になる。

 

現実って、優しくないから。

 

ここまで考えて、私はちょっと笑ってしまいました。段ボールひとつで、こんなに深読みしてる自分が、もう面白い。

 

でも、笑いながら少しだけ悲しかったのは、たぶん図星だったからです。

「ちゃんとして見える生活」って、誰のためなんだろう

夜、コンビニで買ったおでんをレンジで温めて、いつものテーブルに置いたとき、ふと、玄関の箱のことが頭をよぎりました。

 

私の部屋は、いわゆる“散らかっている”わけじゃないんです。

 

床に物が散乱しているわけでもない。洗濯物が山になっているわけでもない。だけど、玄関の箱だけが、生活の弱点みたいに見える。

 

玄関って、外と中の境目で、誰かが唯一、ちらっと覗ける場所でもありますよね。

 

だから私は、玄関に積まれた箱を見ると、「私が私の生活をどう思っているか」だけじゃなくて、「他人にどう見えるか」まで一緒に考えてしまう。

 

でも、考えたところで、誰もそこまで見てない。わかってる。わかってるのに、心が勝手に反応する。

 

その反応って、たぶん「ちゃんとして見える生活」を目指してしまう癖なんだと思います。仕事の段取りができる人。

 

自炊をしている人。部屋が整っている人。

 

健康的な人。丁寧に暮らしている人。そういう像に、無意識に寄せようとして、寄せられないと、勝手に恥ずかしくなる。

 

今日の一秒の目線で、私はそれを思い出しました。

 

自分の生活を、自分のために整えるんじゃなくて、誰かに“評価されそうな形”にしたくなる瞬間があること。しかもそれが、実際に誰かが評価しているかどうかとは関係なく、自分の中だけで勝手に起きていること。

 

…めんどくさいですよね。ほんと。自分に言ってます。

 

 

 

今日だけの小さな気づきは、「開けない自由」もあるってこと

女性が鏡を見てスキンケアする様子

夜更け、歯を磨いて、部屋の電気を落とす前に、私は玄関の箱をもう一度見ました。開ける? 開けない? その二択が頭に浮かんだ瞬間、私はひとつ、ちょっとだけ違う選択肢を作ってみました。

 

「今日は、開けない」

 

開けないって、怠けじゃなくて、選択にしてみる。開けないことを、自分で決める。すると、箱の存在が少しだけ軽くなりました。先延ばしの罪悪感って、「決めてない」から生まれるんだなって、今日初めてちゃんと実感しました。

 

決めてないものが、心の中でずっと鳴り続ける。通知みたいに。

 

だから私は、スマホのメモにこう書きました。

 

・明日、帰宅したら玄関の箱を一つだけ開ける
・一つ開けたら、段ボールはすぐ畳む
・全部はやらない(欲張らない)

 

急に真面目かよ、って自分にツッコミたくなるけど、こういうのって、たぶん“私のため”の工夫なんですよね。

 

誰に見せるでもない、誰に褒められるでもない、自分が自分を追い詰めないための、すごく地味な工夫。

 

今日の小さな出来事は、隣の人の目線ではなくて、私の中の「ちゃんとして見られたい」っていう、ちょっと古い癖を浮き彫りにしただけでした。

 

でも、その癖に気づけたのは、悪くない。たぶん私は、段ボールの話をしているようで、本当は「自分の生活を誰の目で見ているか」の話をしていたんだと思います。

 

明日、私は箱を開けるかもしれないし、開けないかもしれない。たぶん、開ける。たぶん。だけど、もし開けられなくても、「またできなかった」と決めつける前に、ひとつだけ自分に聞いてみたい。

 

ねえ、私が“ちゃんとして見える生活”を欲しがるときって、本当は、誰に安心してほしいんだろう。私自身? それとも、まだ見ぬ誰か?