彼らには被爆者すらも「政治」の道具 | 偕楽園血圧日記

彼らには被爆者すらも「政治」の道具

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 <安倍首相>集団的自衛権「見解の相違」…被爆者団体に

 安倍晋三首相が9日、被爆者団体代表と長崎市内のホテルで意見交換した際、長崎県平和運動センター被爆者連絡協議会の川野浩一議長が「集団的自衛権については納得していませんから」と述べたのに対し、「見解の相違ですね」と応じる場面があった。
 川野氏が記者団に明らかにした。会合終了後、首相に語りかけた同氏に答えたという。集団的自衛権の行使を容認した7月の閣議決定に対しては世論の批判が強く、首相はこれまで、国民に丁寧に説明する考えを繰り返し表明していた。
 川野氏は「本音が出たと思う。国民を説得して理解を求める意欲は感じなかった」と語った。
 会合では、行使容認の閣議決定に対し、長崎県の被爆者5団体が「近隣諸国との緊張を高め、危機を増幅する」として、撤回を求める要望書を首相に手渡した。【大場伸也、樋口岳大】
 毎日新聞 8月9日(土)20時26分

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 なんとも悪意に満ちた記事である。

 広島の時もそうだったが、「被爆者」ということで陳情の列を飛ばす「特権」を手に入れながら、言うことは被爆者の救済に関する話ではなく「集団的自衛権」。
 要は「プロ市民」ということだが、そういう話ならば総理としては「見解の相違」を指摘することで「議論の始まりにしましょう」という態度をとるしかない。
 だが彼らはそれを「首相は『丁寧な説明』を拒んだ!」といい、そんな声を「正義の訴え」のようにメディアが書く。
 もはやまともな「集団的自衛権論議」もできないから、こうやって「クレームをつけて大騒ぎ」するしかないのだろう。
 これが「ジャーナリズム」というのだから、我が国の報道レベルは「内容」というところでも「59位」、いや、もっと低くてもいいぐらいだ。


 それにしても、予想はされてたとはいえ「長崎原爆忌」の式典演説は酷かった。

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 平和宣言には、6日の広島市の平和宣言では言及されなかった「集団的自衛権」の文言が盛り込まれた。田上市長は「集団的自衛権の議論を機に、『平和国家』としての安全保障のあり方についてさまざまな意見が交わされている」とし、日本国憲法がうたう平和主義に触れ「『戦争をしない』という誓いは被爆国・ 日本の原点であり、被爆地・長崎の原点でもある」と述べた。
 毎日新聞 8月9日(土)11時43分配信 「<長崎原爆の日>田上市長『戦争しないという誓い 揺らぐ』」より

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「核兵器に対する批判」よりも自国の安全保障論議を非難することに意識が行っていた市長もひどいもので、彼も一昨日してきた「集団的自衛権とは戦争を進んでするという話ではない」ということが理解できていない一人であるが、それ以上に、

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 <長崎原爆の日>「誓い」の城臺さん「武力で平和守るの?」

NAZEN代表
(写真、毎日新聞より。「平和への誓い」を読む城臺美弥子さん=長崎市の平和公園で2014年8月9日午前11時12分、竹内幹氏撮影)

◇閣議決定した集団的自衛権行使容認、安倍首相姿勢を批判
 9日に69回目の「原爆の日」を迎えた被爆地・長崎。「日本の平和を武力で守ろうと言うのですか」。平和祈念式典で被爆者代表として「平和への誓い」を読み上げた長崎市三川町の城臺(じょうだい)美弥子さん(75)。7月に安倍晋三政権が閣議決定した集団的自衛権の行使容認を「日本国憲法を踏みにじる暴挙」と批判し「被爆者の苦しみを忘れ、なかったことにしないでください」と訴えた。
(中略)
 小学校教諭を退職後、語り部の活動を続けてきた。城臺さんの目には、集団的自衛権行使容認や、武器輸出三原則の緩和を進めた安倍政権の動きは危うく映る。「戦争は戦争を呼ぶ。若者や子どもを脅かさないで」。城臺さんは、安倍首相らを前に言葉をつないだ。
 誓いでは、核兵器禁止条約の早期実現に向け、日本政府は世界のリーダーとなる義務があると主張した。そして「再び愚かな行為を繰り返さないために、被爆者の心に寄り添い、被爆の実相を語り継いでください」と呼びかけ、平和な世界への願いを語った。
 毎日新聞 8月9日(土)12時18分

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 なぜこのような人を「被爆者代表」として出してきたのだろうか?

 彼女はNAZENという「反原発」団体の長崎支部の人間である。そしてNAZENは、中核派の一部門であることがもう分かっている。
 朝日新聞もこの人の演説を、「平和、武力では作れない 長崎原爆の日『平和への誓い』」(2014年8月9日13時48分)という見出しで報じているが、反日テロ組織である中核派と関わりのある人間が「武力で平和は作れない」というのなど、いったい何の冗談であろう?
 武力による国家転覆に失敗したあとはただ「騒乱を巻き起こすことで社会を混乱させる」だけになり果てている組織関係者に被爆戦没者の追悼式辞を述べさせるなど、長崎市は死者を冒涜すること甚だしい

 こういう人間が出張ってくるから、広島の式典の時には大っぴらにならなかった、

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 <長崎原爆の日>大震災・福島の2高校生「原発と根は一緒」

利用される子供
(写真、毎日新聞より。核兵器廃絶を訴える署名活動をする高校生平和大使の石井凜さん(手前)と本田歩さん(奥)=長崎市で2014年8月9日午前8時39分、金澤稔氏撮影)

 核兵器廃絶を訴える署名を国連に届ける高校生平和大使は9日早朝、長崎市内で開かれた平和集会の参加者に署名を呼びかけた。東京電力福島第1原発がある福島県沿岸部から選ばれた女子生徒2人も参加し、「一日も早く原発も核兵器もない世界を実現したい」と訴えた。
 同県南相馬市の小高工高2年、石井凜(りん)さん(16)は、自宅が原発から約15キロの宿泊が禁じられた避難指示解除準備区域にあり、同市鹿島区の仮設住宅で暮らす。
 中学1年の時に東日本大震災が発生。栃木県境に近い福島県西郷村に約8カ月避難した後、仮設住宅に入った。昨年4月に同高に入学したが、自宅近くの本校舎では学ぶことができない。サッカー場に建てられた仮設校舎は実習棟が離れているなど不便だが、電気関係の資格取得などに励む。
 6日から初めて長崎を訪問し、爆心地から約800メートルで被爆し肉親を亡くした下平作江さん(79)から証言を聞いた。石井さんは「風化させないための活動が大切。私も福島のことを伝えていきたい」と誓った。
 福島から選ばれたもう1人の平和大使、福島工業高専3年、本田歩さん(17)の自宅は原発から約47キロのいわき市にあり、現在も洗濯物を屋外に干さず、飲料水は市販のものにするなど、放射性物質の健康影響に気を使いながらの生活が続く。
 中学1年の時に福島第1原発のPR施設を見学した時、案内係の職員から「原発は二重、三重に守られており、安全でクリーンなエネルギー」と聞いていただけに、事故には大きな衝撃を受けた。
 約3週間、横浜市の親戚宅に避難したが、地元企業で働く父の希望もあり、いわき市に戻った。自宅近くには今も仮設住宅が並び、「被災地以外の人にとって3月11日は1年に1回だが、私たちは3月11日を毎日生きている」と考えている。
 事故後、放射性廃棄物の処分や使用済み燃料の再処理など、原発を巡る問題を学んだ。長崎市では高校生らが開いた集会に参加し、「福島県では健康被害に脅えながら生活している人が少なくありません。原爆も原発も根っこの部分では同じではないでしょうか」と問いかけた。【樋口岳大、小畑英介】
 毎日新聞 8月9日(土)12時24分

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「原爆の反原発利用」をするような勢力も湧いて出てくる。

 いわき市などもはや、「現在も洗濯物を屋外に干さず、飲料水は市販のものにする」必要などないというのに。こういう子供に「嘘」を刷り込んで「反原発」のために働かせる「大人」が、城臺氏のような人間なのだから、長崎はそちらでも戦没者を、そして日本社会の将来を冒涜しているのだ。


 本当に原爆で亡くなった人たちを思うのならば、そして本気で核兵器の廃絶のために何かをしたいと考えるのならば、こういう「原爆を政治闘争の種に使っている」団体からそれを取り上げなくてはならない。
「日本人の気持ち」を取り戻すのだ!


 本日の帰還。

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 ゼロ戦の尾翼公開=南太平洋で回収、記念館に―茨城

 戦時中、南太平洋で回収された旧日本軍のゼロ戦の機体の一部が、茨城県笠間市の筑波海軍航空隊記念館で9日から公開される。尾翼を含む機体後部で、胴体の約4分の1に当たる。外板は厚さ0.8ミリのジュラルミン製で、大人2人で運べるほど軽量化されている。
 ニュージーランド空軍が戦時中にソロモン諸島で回収し、戦後民間に払い下げた。十数年前に大阪市に住む60代の愛好家が購入、保管していた。同記念館に寄贈されることになり調査した結果、初の本格的な量産型として配備された「零戦21型」と分かった。ラバウル航空隊の所属機とみられる。
 同記念館の金沢大介事務局長(43)は「戦後69年になるのを前に、新たにゼロ戦の機体が公開されるのは珍しい」と話している。
 時事通信 8月8日(金)20時53分


 零戦21型の後部胴体を一般公開 茨城の記念館

零戦21型
(写真、朝日新聞デジタルより。筑波海軍航空隊記念館に展示された零戦21型の一部=笠間市旭町)

 旧日本海軍の戦闘機だった「零戦21型」の後部胴体部分の一般公開が9日、茨城県笠間市旭町の筑波海軍航空隊記念館で始まった。零戦初期の21型は国内でもほとんど現存していないという。
 後部胴体は長さ2・2メートル、高さ1・8メートル、幅2・8メートル。尾翼には日本人の蔑称を示す「JAP(ジャップ)」の書き込みがある。戦時中はラバウル航空隊に所属し、ソロモン諸島で1942~43年ごろに墜落したとみられ、ニュージーランド空軍が回収した。
 戦後、民間人に払い下げられた後、約10年前に大阪市の男性が購入し、同館に寄託した。同館が専門家に調査を依頼し、21型と特定された。
 同館の運営組織の金沢大介事務局長(43)は「これだけの部品が見つかることは本当に珍しい。『特攻隊』の原点が笠間にあったという歴史と戦争の悲惨さを、この零戦から知ってほしい」と話している。(川崎友水)
 朝日新聞デジタル 8月10日(日)7時24分

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大人2人で運べるほど」って、まあプロペラ機の胴体後部など元々方向舵操作のワイヤーを通すぐらいでメカなどほとんど入っていないから、軽いのが当たり前だ(苦笑)。

戦後69年になるのを前に、新たにゼロ戦の機体が公開されるのは珍しい」というが、あのあたりのジャングルの中にはまだ落とされた航空機はたくさん眠っているだろう。
 我が国では不思議なことに「先の戦争を忘れてはいけない」という人間ほどそういう英霊の遺骨を帰国させることに「無頓着」だが、このゼロを見ることで戦死した人たちのことに思いをはせることは、するべきだ。

 ラバウルの配備機は、まったく「神風特別攻撃隊」とはまるで違う話である。
 生産数が多かったがためにたまたま「飛べる飛行機」の中に零戦が多くあったというだけのものを、まるで「零戦があったから特攻が始まった」かのような言い方などさせないためにも。