市民と議員の対話が最初から建設的である必要はない | 重冨たつや(地域政党あしたのかわさき)公式ブログ

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市民による川崎市政を目指して活動中です。ごく一部の議員・市民による政治を終わらせましょう。
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先日、市民の方から「政党支援者や特定の議員を応援しているわけではない市民と議員が対話する場」を作りたいというご相談をいただきました。

 

具体的には「場ができたらぜひ参加してほしい」とのことでしたので、もちろん喜んで参加したいということをお伝えしました。

 

こういう試みは私が議員を目指したきっかけと非常に考え方が近いので、いっそのこと運営側をお手伝いしたいと思うことも多いですが、

 

「重冨が主催者に関係している」という色がつくことは、イベントにとってマイナスになることもありますので参加者に徹することにしています。

 

このご相談を頂く中で本当に本当に残念で、「だから地方政治がいつまでも市民に届かないんだ!」と思ってしまうストーリーがありました。

 

それは今回相談にいらした方が同じ相談を他の議員にしたときの話です。

 

広く市民に呼び掛けて議員との対話の機会をつくるイベントをしたいという相談に対して、

 

ある議員には「この手のイベントでは議員がつきあげられてしまう。そういう経験が過去にあった。」と断られてしまったとのこと。

 

私はこういう話をたまに聞くのですが、本当におかしな論理だと思います。

 

「つきあげられる」というのが具体的にどういうことなのかはわかりませんが、

 

おそらく政策や普段の活動などについて市民の怒り?疑問?を矢継ぎ早にぶつけられた経験があるということだと思います。

 

市民と議員(もしくは行政)が対話する場は、一般的に、建設的な議論をする場にすべきといわれることがあります。

 

これ自体は私ももちろん賛成なのですが、そもそも建設的な議論をするための信頼関係ができていないのであれば、感情的で建設的ではないやりとりも必要なステップだと思います。

 

行政はともかくとして、議員がここから逃げることは絶対にあってはならないと思います。

 

政治は市民に対して「これからのまちづくりはこうしたい」と主張する機会が多くあります。

 

だとしたら市民にも「これからの政治はこうあってほしい」と主張する機会があってしかるべきです。

 

(というより後者が民主主義のそもそも根源といった方が正しいかもしれません)

 

その手法が感情的なものになってしまうという状態をつくった責任の多くは政治を担う側にあるわけですから、それは甘んじて受けるべきだと思います。

 

そうでなければ政治が何を発信しても受け取る側の心の準備はできません。

 

もちろんほとんどの議員はまじめに仕事をしているはずなので、政策にしても普段の活動にしてもなぜそうしているのかなど説明したいことは山ほどあるでしょう。

 

だとしたら市民の「つきあげ」をがっちりと受け止めたうえで、自分たちの仕事ぶりについてひとつでもふたつでも聞いてもらえるような関係までもっていく努力をするべきです。

 

支援者以外の市民が集まる場に「つきあげられる」ことを理由に行きたくないと思う議員がどの程度いるのかわかりませんが、

 

私はそういう議員が一人でも少なくなるようにもっと頑張らないといけないなと思いました。

 

せっかくの日曜日に少し暗めのテーマで失礼しました。最後までお付き合いいただきありがとございました。

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