1月26日、“桐島聡容疑者とみられる男の身柄を確保”という速報を見たとき頭に衝撃が走った。

駅や交番で黒縁メガネ、長髪、一人だけ笑顔の手配写真を目にしたことがあるだろう。

連続企業爆破事件に関与して、昭和50年(1975年)に指名手配され、49年逃亡していた男だ。

桐島が突如現れるとは誰も思っていなかっただろう。

多分日本のどこかにいるだろうな、でも捕まる可能性は限りなく低いだろうと思っていた。

「すごいな!よく見つけたな!」と感嘆したが、自首だったとは驚きだ。

男は末期の胃がんで1年以上前から通院しており、今年1月上旬体調を崩して路上でうずくまっているところを周囲の人が声をかけ、救急搬送された。

神奈川県鎌倉市内の病院に内田洋という偽名で入院し、1月25日、「自分は桐島聡」と名乗り出て、「俺は最後だから捕まえてくれ」、「最後は本名で迎えたい」と病院関係者に語り、病院側が神奈川県警へ連絡。神奈川県警から通報を受けた警視庁公安部が病院に駆けつけ桐島聡を名乗る人物への任意の事情聴取が開始された。

 

桐島聡は明治学院大学在学中の1974年から1975年にかけて連続企業爆破事件を起こした東アジア反日武装戦線の「さそり」のメンバーだった。

鹿島建設爆破、間組本社ビル爆破、オリエンタルメタル社・韓産研爆破、間組京成江戸川作業所爆破、間組京成江戸川橋鉄橋工事現場爆破の5つの事件に関与したと見られる。

 

東アジア反日武装戦線は「狼」、「大地の牙」、「さそり」の3つのグループから構成される過激派の組織である。

’74年から’75年にかけて反日武装戦線が行った爆破事件は以下のとおり。

1974年8月  三菱重工爆破事件(狼)

1974年10月 三井物産爆破事件(大地の牙)

1974年11月 帝人中央研究所爆破事件(狼)

1974年12月 鹿島建設爆破事件(さそり)

1975年2月  間組本社ビル、大宮工場爆破事件(「狼」、「大地の牙」、「さそり」3グループ合同で爆破)

1975年4月  オリエンタルメタル社・韓産研爆破事件(大地の牙、さそり?)

1975年4月  間組爆破事件【間組京成江戸川作業所爆破】(さそり)

1975年5月  間組爆破事件【間組京成江戸川橋鉄橋工事現場爆破】(さそり)

 

「さそり」はリーダーの黒川、宇賀神、桐島の3人で構成されていた。

太字部分が「さそり」が関与した事件である。オリエンタルメタル社・韓産研爆破事件については本当に関与していたのかよくわからない。

 

1975年5月19日、東アジア反日武装戦線の主要メンバー8人が一斉逮捕された。

桐島はすぐに逃亡。

一人暮らししていたアパートには5月19日付の新聞は郵便受けに残ったままだったという。

翌日の5月20日に東京の渋谷区の銀行にて3万円現金を口座から下ろしている。

逃亡する際、広島の実家に電話をかけた。

両親から「自首しなさい」と説得され、「うん、うん」と頷いていたが、

「宇賀神君と一緒に逃げる」と言って電話が切れたという。

 

逮捕された東アジア反日武装戦線のメンバーの「さそり」のリーダーの黒川が

桐島と宇賀神のアパートの鍵を所持していたことから桐島と宇賀神の存在が明らかになり、

1975年5月23日に桐島と宇賀神は全国指名手配された。

桐島は21歳、宇賀神は22歳だった。宇賀神は同じ「さそり」のメンバーで桐島と同じ明治学院大学の学生だった。 

 

同月31日午前10時50分頃、

「岡山に宇賀神(一緒に指名手配された男性)と女と3人でいる、カネを準備してほしい、国外逃亡も考えている。」と広島の実家に電話をかけ、そのように伝えた。

父親は「自首しなさい。悪いことをしているのはわかっているだろう。」と説得したが、「組織があるからできない。組織があるから逃亡できる。」そのように話し、3分程度で電話が切れた。

同日の夕方、再度実家に電話がかかってきて、女性の声で「お父さんですか?聡君は岡山に元気にいます」と一方的に話し、電話が切れたという。

女性の口調は桐島より年上で関西弁、大阪のなまりが強かったという。

それ以降、桐島の消息は途絶えた。

 

桐島聡はどのような人物だったのか。

1954年1月9日生まれ、広島県深安郡神辺町(現・福山市神辺町)出身。

父、母、姉二人、本人、弟の6人家族だった。

曾祖父は村議会員、祖父は町議会員、父親は農林水産省の職員で地元では名家として知られていた。

1969年、広島県尾道市にある高校に進学。

同窓生らは桐島の当時の印象を「真面目で普通の青年だった」と話す。

クラスメートだった女性によると当時は高校生もデモやストに参加する世相だったが、桐島容疑者はそういったグループに属していなかったという。柔らかい雰囲気だったので、指名手配されたと聞いたときは本当に驚いたと話した。

大人しいタイプ、人を引っ張っていくよりも追いかけるタイプ、人から影響しやすい、染まりやすい、そんな印象だったようだ。

ただ熱しやすく冷めやすく、「青春のすべてを犠牲にしてガリ勉になって何になるのか」と議論を吹っ掛け、周囲とだんだん距離を置くようになったという話もある。

上手ではなかったが、サッカー同好会に入部するなど活動的な面もあったようだ。

 

1972年、桐島は明治学院大学法学部に入学。映画研究会、部落解放研究会に所属するも1年程度で退部し、山谷の日雇い労働者らの越年資金闘争に参加し、東京都や台東区らを相手取り、闘争に明け暮れていく。

1973年(昭和48年)、山谷にて、後に東アジア反日武装戦線「さそり」のリーダーとなる黒川と越冬闘争や日雇い労働者の様々な支援活動をしていた宇賀神が出会う。宇賀神が主宰、黒川がコーチを務める空手研究会にも桐島は参加していた。

1974年(昭和49年)10月、黒川と宇賀神は東アジア反日武装戦線に参加し、「さそり」を結成。

戦時中、朝鮮人・中国人を強制連行し、強制労働させ、虐待、虐殺して大きな利益をあげた建設資本が山谷などの下層労働者を同じように酷使している。その建設資本に報復するために武装決起する。

同年11月、仲間がもう一人必要だということになり、黒川が桐島を説得し、「さそり」に引き入れた。

 

そして「さそり」は鹿島建設の資材置き場、間組本社ビルなどを爆破していく。

1974年12月 鹿島建設爆破事件

1975年2月28日  間組本社ビル6階爆破

1975年4月27日  間組爆破事件【間組京成江戸川作業所爆破】

1975年4月27日  間組爆破事件【間組京成江戸川橋鉄橋工事現場爆破】

(【間組京成江戸川橋鉄橋工事現場爆破】では不発に終わったが、5月4日再度爆破した)

 

1975年5月19日、主要メンバー8名が一斉逮捕。

桐島と宇賀神は全国支配手配された。

(宇賀神は逃亡から7年後の1982年7月、東京板橋区にて逮捕された。1990年に懲役18年の刑が確定し、2003年に出所している。東アジア反日武装戦線の中で唯一、完全黙秘を貫いた。)

 

 

間組爆破について、

以下、宇賀神寿一の控訴趣意補充書(第四回)より一部抜粋。

--------------------------------------------------------------------

◆「狼」、「大地の牙」、「さそり」グループ合同、間組本社ビル爆破

1975年2月28日

テメンゴールダムの建設を中止させるために間組を爆破し、意識を喚起させる。

また、それと並んで寄せ場労働者へのアピールという点にも配慮し、「さそり」としては作業所爆破を提起した。しかし、「狼」、「大地の牙」の賛同を得られず、結局話は間組本社爆破という方向でまとまっていく。

午後6時に爆弾を仕掛けて午後12時に爆破する予定だったが、

6時から12時では時間がありすぎると「大地の牙」からの指摘があり午後8時爆破に変更した。

負傷者を出さないために午後12時爆破を予定していた黒川にとっては不本意だった。

そして「狼」が爆破したビル9階にて負傷者1名を出した。(「さそり」が爆破した6階では負傷者は出なかった)

負傷者が出たことは今一つ思いもよらぬ波紋を引き起こした。桐島の動揺である。

午後12時爆破予定が8時に変更されたとはいえ、この時刻であれば残業する人もいないだろう。また、爆薬の量も四キログラムと規模を縮小した。果たしてこれが、「事項前の打ち合わせで、けが人を出しても仕方ない」(黒川の検面調書)と確認した者のとる態度と言えるだろうか。

 

◆間組京成江戸川作業所爆破

1975年4月27日

具体的な仕掛けについては、桐島が江戸川作業所、黒川が小岩川というように決まった。右のように決まった理由は、江戸川作業所の方が仕掛けやすい、ただそれだけのことである。即ち、江戸川作業所には人がいない、しかも近所には民家もない。慣れない桐島でも大丈夫だろう。

具体的な仕掛け場所については特に決めるということはしなかった。桐島の判断で起きやすいところに置けばよい、ということであった。決めてあったのは、ただ建物の床下に仕掛けるということだけである。尤も、人の現在する、あるいは周囲に人のいる建物の床下に爆弾を仕掛けるとなると、これは容易なことではない。それが可能だったのは本件建物およびその周辺にはだれもいないと判断したがためにほかならない。黒川は桐島から、仕掛けた場所については次に会った時に初めて報告を受けているのみである。もし人の存在を認識していたならば、果たして誰がこのような大胆な行動をとりうるだろうか。

爆弾は予定通り爆発した。ところが、この事件で予想外の事態が発生した。

第一は爆破の規模である。「腹腹時計」の二八頁には「砂糖で代用した火薬は五キログラム単位ぐらいで使わないと威力が望めない」との記載がある。「腹腹時計」の記載からすれば、ほとんど「威力は望めない」程度の爆弾が江戸川作業所においては用いられていたのである。

第二の誤算は今井(負傷者)の存在である。負傷者を出したことについて、桐島は激しく動揺した。

政治活動は、方針→実践→総括の繰り返しであり、これは「さそり」においても全く同様である。リズムに狂いが生じたのであれば、それは実践の結果、思わぬ事態が生じたがためにほかならない。「どういうふうに受け止めるか」について「かなりつっこんだ」議論をしたにも拘わらず、なお「何か明確に総括というか、評価ということは出さなかった」というのは、右の狂いが如何に大きかったかを如実に物語るものである。

--------------------------------------------------------------------

宇賀神は一審において殺人未遂を認定された。江戸川作業所爆破によって負傷者が出たことについて、「死んでも構わない」と思って爆弾を仕掛けたのだと認定された。

しかし負傷者が出ない時間帯を狙って爆弾を仕掛けた、威力が望めない程度(二キログラム)の爆弾が用いられていた。

 

 

大学時代の下宿先のアパートの大家や同じ入居者の話だと、

桐島はまじめで普通の青年で、大人しい、やさしい、坊ちゃん育ちという印象、いつもニコニコしていたという。

朝早くで外出し、だいたい夜12時ぐらいに帰宅していたという。

指名手配直前まで新宿歌舞伎町の大衆料理店でアルバイトしており、実家からの仕送りはなく、アパートの家賃、組織への上納金はすべて自分でまかなっていた。

父親から見ても立派な青年だったという。

どこで間違えたのだろう。なぜ一線を越えてしまったのか。21歳で指名手配され、人生がガラッと変わってしまった。

まだ20歳の若者を組織に引き入れた黒川の責任は大きい。

 

ネット上では桐島が380人の重軽傷者、8人の死者を出した「三菱重工爆破事件」に関与して死者を出したと誤解している方が散見されるが、「三菱重工爆破事件」は東アジア反日武装戦線の「狼」が起こした事件で桐島は関与していない。

桐島は東アジア反日武装戦線の「さそり」に所属しており、「さそり」が起こした爆破事件では死者は出ていない。

だから1975年の指名手配後、すぐに出頭していたら30代で刑を終えていただろう。そうでなくても本来なら15年後の1990年に時効は成立していたはずだった。

だが、間組本社ビル爆破などで共犯の東アジア反日武装戦線「狼」の大道寺あや子が、1977年に日本赤軍が起こしたダッカ日航機ハイジャック事件で、超法規的措置により釈放され、現在も海外へ逃亡しており、桐島の時効も停止したままだった。

そのため桐島は生涯追われる身となった。

人質の命が大切なのはわかるが、なんでテロリストを釈放なんかしたのか。

当時の福田首相は「殺すんだったら俺を殺せ、人質は解放しろ」ぐらいのことが言えなかったのだろうか。

このとき桐島は多分「俺は一生逃げ続けることになるな」と思っただろう。

桐島よりも8人の死者を出した国外逃亡している大道寺あや子、佐々木則夫の方が腹立たしいが、遺族からしたら、桐島だろうが何だろうが東アジア反日武装戦線自体が憎らしいのだろう。そして「逃げる」という行為がはらわたが煮えくり返るほど腹立たしいだろう。

 

しかしなぜ「さそり」が何のために爆弾闘争をしたのか知らない人は彼らをただの極悪人というふうにしか思わないだろう。なぜ「さそり」が鹿島建設、間組をねらったのか考えたことはあるだろうか。

鹿島建設が戦時中に中国人を強制連行して、中国人を強制労働させたこと、そして400名以上の死者を出したこと、間組が日雇い労働者を酷使して海外進出をしていたことをご存知だろうか。

爆弾闘争のきっかけは人権を無視した行為が許せなかったからだろう。

爆弾闘争は間違ったやり方だと思うが、その元凶となった鹿島建設、間組はなぜもっと非難されないのか。なぜ東アジア反日武装戦線だけに怒りが向けられるのか。もっと本当の「悪」を暴くべきではないのか。

 

もうすぐ桐島が亡くなってからもうすぐ49日がたとうとしている。

今頃、仲が良かった人たちに会いに行っているだろうか。

それとも孤独と後悔に苛まれているだろうか。

桐島の逃亡生活の続きは次回に書きます。

 

桐島は柳ジョージが好きだったという。

柳ジョージ(本名:柳譲治)は1948年1月30日、

神奈川県横浜市に生まれた。ロック、ブルースロックのシンガーソングライターである。

高校進学後、ギターを手に入れてバンドを組んで活動を始めた。

日本大学法学部経済学科に進んだ頃にムーというバンドを率いて地元・横浜のディスコ等で演奏するようになる。

パワー・ハウスというバンドで1969年4月1日東芝エキスプレスより『ブルースの新星/パワー・ハウス登場』でアルバム・デビューした。この時点で柳はベーシストに転向している。このバンドは二十歳そこそこのメンバーだったが、打ち出されるサウンドはかなりレベルが高かったそうだ。しかし約1年の活動期間を経て解散してしまう。

その後同じ横浜出身のゴールデン・カップスから誘いを受けグループに合流する。メンバーにはミッキー吉野(キーボード)やアイ高野(ドラムス)などがいた。1972年にゴールデンカップスは解散してしまう。

その後、柳ジョージは音楽活動に見切りをつけサラリーマン生活を送った時期もあるが、スティーブ・マリオットのステージを見てもう一度音楽活動を再開する。しかしすぐに成功をおさめたわけではなかった。

1977年に萩原健一が主演したドラマ「祭囃子が聞こえる」の主題歌を歌い、歌手として自信をつけて、自分のバンド、レイニーウッドを結成。1978年アルバム『TIME IN CHANGE』でデビューを飾った。1stシングル『酔って候』をリリース、2ndシングル『同じ時代に』のB面の『WEEPING IN THE RAIN』を聴いた萩原健一から、ぜひ新しいドラマの主題歌に使ってみたいという申し出があり、新たに日本語の歌詞をのせる作業り入り、完成したのが、1978年12月1日に3rdシングルとしてリリースされた『雨に泣いてる』だ。

最初はあまり反応がなかったのだがドラマの終了間際から火がつき、最終的にはヒット・チャートの上位を記録する大ヒットとなった。

 

 

2011年10月10日、腎不全のため死去。享年63歳。

ずいぶん早くに亡くなってしまったんですね。

最近どうしてるのかなと思っていたのですが残念です。

ご冥福をお祈りいたします。

30年ぐらい前に1回だけテレビで見たことがあります。

愛想がないわけではないですがあまり笑わず多くを語らない人でした。

強面な印象でしたが話し方や態度が落ち着いていて大人の男って感じでかっこよかったです。

この曲で桐島聡を追悼させていただきたいと思います。

柳さんも桐島も元気でね。