56戦54KO カルロス・サラテ 「1979年 協栄ジム移籍!」 WBC世界バンタム級王者 | BOXING MASTER first 2006-2023

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輪島功一選手の試合に感動、16歳でプロボクサーを志し、ボクシング一筋45年。ボクシングマスター金元孝男が、最新情報から想い出の名勝負、名選手の軌跡、業界の歴史を伝える。

WBC世界バンタム級王者カルロス・サラテ(メキシコ)=55勝(54KO)1敗=の協栄ジム移籍話が浮上したのは、1979年春の事。メキシコ駐在のマック金平氏にサラテのマネジャー、クーヨ・エルナンデスから、「誰かサラテを日本で買うようなところはないか」と話が持ち掛けられた。マック氏は国際電話で叔父である協栄ジム金平正紀会長に報告。「それは本当か!」と驚いた金平会長だったが、「サラテのようなボクサーが日本に来るなら、日本の選手のレベルアップになる。あのボクシングは芸術品だ。ボクサーの手本になる」とゴーサインを出した。移籍金は2万ペソ(当時のレートで20万ドル、2千万円)。

 

 

1978年10月28日(日本時間29日)、サラテはプエルトリコのサンファンでWBC世界スーパーバンタム級王者ウイルフレッド・ゴメス(プエルトリコ)の持つ王座に挑戦するも、調整に失敗し5回TKO負け。2階級制覇の夢はあえなく消え去ったが、再起戦となった79年3月に米・ロサンゼルスで行われた、1位メンサ・パロンゴ(トーゴ)との9度目の防衛戦は、3回KOで挑戦者を一蹴。サラテ、まだまだ強しの印象を残していた。

 

 

サラテ、10度目の防衛戦はパロンゴ戦の前から、同じエルナンデス氏にマネージメントされるルぺ・ピントール(メキシコ)との指名戦が義務付けられおり、試合は6月にロサンゼルスかホノルルでの開催が予定されていた。そして、この同門対決を前にエルナンデス氏は、最近、コントロールが難しくなって来ていた王者サラテのマネージメント権を譲ろうと考え、ボクシング大国、日本に声をかけて来たのだ。

 

 

金平会長は早速動く。サラテvsピントールを日本開催に持ち込むべく行動を開始。かかる経費は大雑把に見て、サラテの移籍料2千万円、ファイトマネー3千万円。ピントールのファイトマネー1千万円の合計6千万円。TBSに話を持ち込んだ金平会長は、「1千万円は私が払ってもいい。5千万円なら、そう高くもあるまい」とアタック。TBSも考慮するというところまで来たが、6月では番組の枠が取れない事がわかった。

 

 

日本開催の受け入れが整ったことろで金平会長がメキシコへ飛び、試合の日程調整を行う事になったが、WBCによる指名戦は6月3日(日本時間4日)に米・ラスベガスのシーザース・パレスでの開催が決定。エルナンデス氏が一時的に両選手のマネージメント権を第三者に譲る形で行われた試合は、サラテが4回にダウンを奪い倒し切れなかったものの、王座防衛かと思われた。しかし、発表されたスコアは、145-133でサラテと、143-142、143-142でピントール。全く不可解な採点でサラテは王座から陥落。

 

 

試合後、怒り心頭のサラテはWBCに提訴。「ルール通りに動いてくれないなら、ボクシングから引退する」と宣言。その後、ピントールとの再戦は企画されながらも、ついに実現せず、サラテはリングから遠ざかる。再びリングに登場したのは約7年後で、再びエルナンデス氏とコンビを組んだサラテは連勝を続け、1987年10月、ジェフ・フェネック(豪)の持つWBC世界スーパーバンタム級王座に挑むも4回負傷判定負け。翌年2月、ダニエル・サラゴサ(メキシコ)と、空位となっていた同王座を争ったが、10回TKO負けで戴冠ならず。この試合を最後に引退した。通算66勝(63KO)4敗。1994年には国際ボクシングの殿堂入りも果たしている。サラテが日本に来ていれば、日本ボクシングの歴史も変わっていたでしょうねェ。

 

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