上原康恒/挫折からのスタート・協栄ジムの歴史13 | BOXING MASTER first 2006-2023

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輪島功一選手の試合に感動、16歳でプロボクサーを志し、ボクシング一筋45年。ボクシングマスター金元孝男が、最新情報から想い出の名勝負、名選手の軌跡、業界の歴史を伝える。

プロデビューから僅か2年足らず、上原康恒選手は10勝(8KO)1敗の戦績を引っさげ、1974年8月ホノルルでベン・ビラフロア(比)の持つWBA世界S・フェザー級王座に初挑戦。もちろん日本にもTV中継されました。

チャンピオン・ビラフロアは、14才からプロのリングに上がり19歳4ヶ月の若さで、日本の小林 弘 (SB中村)選手から世界王座を取って代わっていた、アルフレッド・マルカノ(ベネズエラ)を攻略し、世界タイトルを奪っています。

ハワイのリングを主戦場とし、サム・一の瀬プロモーター(故人)の手で世界王座に付いたビラフロアは、日本人選手との対戦も多く8戦6勝(6KO)1敗1分の戦績。ファイターには滅法強いが、足を使うアウト・ボクサーは苦手の傾向があります。

ハワイのリングで上原選手がデビューした頃、ベンはもうすでに世界チャンピオン。カラカウア・ジムで一緒に汗を流す事もあったと思われます。この試合ベンにとっては、柴田国明(ヨネクラ)選手に奪われたタイトルを取り返しての2度目の防衛戦。連続7人目の日本人対戦者が上原選手でした。

上写真は、ハワイの試合会場NBC。とてもよい会場です。アラモアナから近いところにあります。

試合は実にあっけなく終わります。1ラウンドから上原選手ダウン。それでも打ち合いを挑む上原選手。1発の威力をまざまざと見せ付けられた試合になりました。テンプルにもらったパンチが効きました。

作戦的には最初足を使う予定だったようですが、上原選手行ってしまったようです。2回1分17秒KO負け。始めて味わう屈辱、大きな挫折。この時24才。

ここからの上原選手の道のりは実に長い。日本タイトル防衛を続けながら、じっと、やがて来るであろう世界タイトル再挑戦のチャンス待ちます。日本タイトルを親友のマサ・伊藤(山口協栄)選手に一度奪われたり、フィリピン遠征で敗れる(地元判定?)等、後輩・具志堅選手が世界王座を獲得した1976年は、全くよくない。

それでも77年からは日本タイトル戦も含め7連続KO。この中には、後にOPBF王者・世界2位まで躍進した吹打 龍 (ヨネクラ)選手、タフで知られ後に日本S・ライト級王者・世界3位まで進出する守安竜也(平沼)選手も含まれます。

結果的にいうと、後輩・具志堅用高選手が世界王座に上り詰めた以降は、ラスト・ファイトまで負けていません。12勝(10KO)。この頃は、昔のような激しい練習はやっていなかったようですが(^^)。

はじめて気が付きましたが、今振り返ると素晴らしい”意地”を見せていますね。とにかく具志堅さんと比較されて大変でしたから、先輩である上原選手の胸中はいろんな想いがあったと思います。

しかし、世界王座を獲得した後言ってました。「具志堅がいたからこそ、自分も世界チャンピオンになれた」と。

この言葉、重いですね。その言葉の裏側には、言い尽くせない想いが込められています。上原選手の世界タイトル獲得20周年のパーティに出席させていただきましたが、感動しました。

何か坂田選手と亀田選手のようなと、つい感じてしまいます。上原選手には大変面倒を見てもらいました。シューズ、練習道具はもちろん、食事もたくさん。後輩から言うのは大変失礼ですが、人間的にとても”いい人”です。大竹マネジャーも言っています。そしてまた、坂田健史選手も実に”いい男”なんです。

アッ、亀田選手も頭の良い”好青年”ですよ。とかく誤解されがちですが、そんな事ありませんよ。本当に・・・。明日を夢見る全てのボクサーと同じ種類の人間です、間違いありません。

坂田選手も、明日を信じて腐らず頑張っています。上原選手のサクセス・ストーリーが、少しでも参考になれば嬉しいと思っていますが・・・。

という事で、次回は当時をリアルに振り返りながら、続きます・・・。