悲運のファイター・門田新一 | BOXING MASTER first 2006-2023

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輪島功一選手の試合に感動、16歳でプロボクサーを志し、ボクシング一筋45年。ボクシングマスター金元孝男が、最新情報から想い出の名勝負、名選手の軌跡、業界の歴史を伝える。

ハワイでのイトウ先生とのボクシング談義で必ず出てくるのが、三迫ジム所属だった現ファミリー・フォーラムジム会長・門田新一(恭明)選手の話。門田選手は、1972年から73年に掛けてハワイのリングで活躍しました。

1970年10月、敵地韓国でOPBFライト級王者・趙を3回KOで破り、OPBF王座強奪。この時代、韓国遠征の日本選手が勝つのはまれで、価値があります。韓国リングでは、日本人選手は”噛ませ”でした。

この王座は3度防衛。71年8月の2度目の防衛戦では、後の世界王者・ガッツ石松(ヨネクラ)選手を、8ラウンドKOで破ります。3度目の防衛戦は、同年11月ルディ・バロ(比国)と対戦。これも3ラウンドKOで、6連続KO勝ち。

このルディ・バロも、後年世界ランキング2位まで躍進。ムエタイ王者センサク・ムアンスリン(タイ)のデビュー戦の相手を務めます。国際式転向第1戦で世界2位を56秒でKOしたセンサクは、3戦目で世界王座を手にしました。

次の防衛戦に勝てば時の世界ライト級王者ケン・ブキャナン(英)への挑戦が確実視されていました。試合は、72年1月16日。当初予定されていた挑戦者がキャンセル。ピンチヒッターで名乗りを上げたのが、ガッツ石松選手。

そしてまさかの判定負け。傷心の門田選手は、心機一転海外に活路を求めます。一年後ハワイのリングで、前WBC世界ライト級王者のチャンゴ・カルモナ(メキシコ)と対戦するチャンスが与えられます。

下写真は、カルモナを破った思い出の試合場。NBC。

カルモナは世界タイトルこそ、あっという間に手放してしまいましたが、確か世界王座に付いた時、41勝(39KO)位だったと思います。殺人パンチャーとして、恐れられていました。

この試合に門田選手は、7回KO勝ち。実力で世界ランクを勝ち取り、日本へ凱旋帰国、7連勝5連続KOの勢いで世界タイトル挑戦しますが、マッチメークの関係でこの世界挑戦は、一階級上のS・ライト級。

この頃のライト級王者は、WBAロベルト・デュラン(パナマ)。WBCロドルフォ・ゴンザレス(メキシコ)。

ボクシングマガジン73年8月号に、”石松VS門田リング外のゴンザレス争奪戦”という記事があります。これは、ゴンザレスがWBCから指名試合を義務付けられた為、この時は一時お預け。

しかしガッツ・石松選手には、73年9月敵地パナマでWBA王者デュランへ挑戦するチャンスが与えられました。が、石松選手は、10回KOで破れます。

ゴンザレスが指名試合をクリアすると、次は門田選手に世界挑戦の順番が回ってくるはずでした。イトウ先生が言うのは、ここの所です。

ゴンザレスのマネジャー、ジャッキー・マッコイ(故人)とイトウ先生のボス、サム・一の瀬プロモーター(故人)は、長年の信頼ある間柄。石松選手側が交渉の窓口としていたのは、ジムOB元日本王者の清水 精氏。ゴンザレス側は、プロモーターのドン・チャージン。

清水氏とは、先月東京でお会いし食事しました。今でもイトウ先生と、親しくお付きあいされています。ドン・チャージン氏は、今もオスカー・デラホーヤ率いる、ゴールデンボーイプロモーションのアドバイザーを務めます。やはりサム・一の瀬氏とは盟友です。

WBC総会が東京で行われた時、イトウ先生、ドン&ロレイン・チャージン夫妻、日本人初の国際マッチメーカー瓦井孝房(故人)氏らと食事をご一緒させていただく機会がありました。

席上瓦井氏が、「ドンは日本人以上に日本人らしい男。義理、人情を重んじるめずらしい男」と、おっしゃられていたことが印象的です。

このいくつもの大興行を手掛けてきたメンバーには、”信頼関係”があります。門田選手にカルモナと対戦するチャンスを作ったのは、サム・一の瀬氏。勝った門田選手を、ゴンザレスの世界タイトルに挑戦させる腹ずもりだったと聞きます。

東京開催を希望する門田選手側の関係者が、一の瀬氏を飛び越え、マネジャーのジャッキー・マッコイに直接交渉。マッコイは、一の瀬氏に報告、相談します。

「サムさんは、ゴンザレスのファイトマネー聞いて、こちらの条件より良かったから、マッコイにやった方がいいよと言ったのよ、こっちは下りる言うて」

しかしマッコイは、「サムに任せる」という返事。長年の信頼関係、大事ですね。門田選手側と一の瀬氏の交渉は当然ながら不調。そこで、イトウ先生の弟子でもあった、ヨネクラジム米倉会長へとチャンスが回る事に。

挑戦者はガッツ・石松選手。9月WBA・デュラン挑戦失敗後、即WBC・ゴンザレスへの挑戦のチャンスがやって来ました。当初1月に予定されていた試合は、ゴンザレスが”毒クモに噛まれた為”4月に延期。

石松選手は、前哨戦をすることが出来ました。その後の結果は、皆さんご存知の通りです。「ゴンザレス、目方きつくて1月はコンデション作れなかったのよ」「マッコイの言う事も、聞かなくなっていたね」「米倉はサムさんに感謝しないといけないね」

石松選手、負けていたら何言われていたでしょうね。世界戦発表会に来た新聞記者は、2,3人と言われる”絶望的挑戦”だった訳ですが、勝ちました石松選手。一躍人生の勝利者に・・・。

門田選手の世界タイトル挑戦は、1階級上げざるを得なく、74年」10月のWBA世界S・ライト級王者アントニオ・セルバンテス(コロンビア)への、遅すぎた”水増し”挑戦は8度のダウンを奪われ、8回KO負け。

「ホントは”カドタ”だったのよ。かわいそうね」「ボクが直接”カドタ”に話してあげる」「ホントは世界チャンピオンよ」