藤波さん大年表

 

藤波さんのデビュー50年を記念して、この「藤波さん大年表」(お試し版)を作りました。
藤波さんの「誕生」から、令和4年の今までを、
年毎に「トピックス」を豊富に入れて、「楽しく」年表風にまとめようと思っています。(きっと、すごい量になるなあ)
 
出典はいちいち記していません。独自研究(笑)を含みます。
ほぼ文字だけですが、たまに素敵な写真を専門誌紙、パンフレット等からお借りして載せています。もし、問題がありましたら、すぐに削除いたします、
よろしくお願いいたします。RSD
 
試行錯誤を繰り返しつつ、もうちょっと、見やすくできねえかなあ? と思いつつ、、がんばります(笑)
 
御覧いただいた感想を
コメントまたはメッセージで送っていただけたら幸いです。
また、記述に誤りや勘違いがありましたら、お知らせください。
 
 
■ 藤波さん大年表 ■
★☆藤波さん大年表 1972年新日本プロレス旗揚げ
 
 
 
さあ、藤波さんの「若手時代」をいきます。で、
 実は、「藤波さんの歴史は、新日本プロレスの歴史」です。このページからは、豊富なエピソードで、藤波さんと新日本プロレスの歴史をたどります!

 

●昭和47年の「新日旗揚げ」から、昭和52年(1977年)「藤波海外遠征」まで 

  

◆この章◆1972-1977

  藤波は、猪木のもと、新団体の旗揚げに全力を尽くす。旗揚げ第一試合をつとめる。苦しい団体経営を前座で支え、やがて海外遠征に出発する。ドイツからメキシコ、アメリカ転戦まで。

 

のまずは、最初の1年(1972年)だ

 

 


 


●昭和42年(1972年) 藤波18歳

 

●昭和42年(1972年) 藤波18歳

道場開きより
 


●昭和47年(1972年) 18歳  いよいよ「新日本プロレス」旗揚げ

 

アントニオ猪木を追って、日本プロレスの合宿所から夜逃げ同然に引っ越した藤波は、猪木のマンションに一室を借りて住み込み、設立準備の事務所のソファーに寝ることもあったという。
 藤波「当時、僕はマンション住まいですからね。すごいでしょ(笑)」


1月26日 猪木が京王プラザホテルで、「新日本プロレス」設立を発表。渋谷区猿楽町パシフィックマンション内に設置。代表猪木寛至。資本金1000万円。
 

1月29日 

●道場の完成

猪木邸の庭に新日本プロレスの道場がオープン。世田谷区上野毛。
 ここは、もとは歌手・畠山みどり(「恋は神代の昔から」「ちょうど時間となりました」「出世街道」などのヒット曲がある。漫才の大御所・上沼恵美子がファンとして有名)の豪邸。1963年に建築した150坪の建築を、猪木が1967年に1250万円で購入したもの。それを「新日本プロレスの道場と合宿所」に改築した。
「すばらしい庭が、道場になっていましたからね。基礎は専門家がやってくれますが、われわれもお手伝いしましたよ」

午後4時から、記念の鏡割りで「やるぞー!」と気勢を上げたあと、猪木が木戸と藤波を相手に稽古をつける。この日、新人募集も行われる。だが、山本小鉄の厳しさに全員脱落。

    道場開きの画像  


 道場にて


 道場にて 練習しているのは木戸と藤波


    (木戸が押さえ込み、手前が藤波の足


   

猪木と山本の公開練習・後方に藤波の姿も

 

    発見★こんな場面も!     

テレビ番組で紹介された、藤波の名まえが貼られたロッカー
平成の末期の、この番組の取材時には「ミカミ」選手が使用していた。


新日の事務所に、日本プロレスの選手が現れて

 この当時、新日本プロレスの事務所には、猪木の関係者数人が寝起きしているだけで、旗揚げのため奔走する猪木は不在のことが多く、道場は山本小鉄が取り仕切った。道場破りが来ることもあり、小鉄や木戸がお相手をした。
小鉄「誰の挑戦でも受ける!って言って、猪木さんはいないんですから(笑) プロがなめられたらいけないので、僕は、相手の腕を折りました」

 日本プロレスの事務所はわずか数百メートル離れただけなので、血の気の多い日プロの選手等が殴り込みに来ることもあったという。
 「猪木さんは、これ見よがしに、近くに事務所を開いたからな」(グレート小鹿)    (「プロレス取調室」(2016))

 ちょうど藤波はじめ選手が事務所にいるとき、日本プロレスの中堅レスラーが来ると、レスラー同士のトラブルをさけるため、選手は、事務所の奥に逃げ込むこともあったという。残った「一般人」には手を出さないだろうと。
「僕は奥に居て、声が聞こえたんだけど、小鹿さんはわかりました」藤波(同書)
「俺と林(牛之助)で、日本刀持っていったんだよ。冬だからオーバーを着て、懐に日本刀を持ってな」(グレート小鹿)(同書)

◎この道場について
 山本小鉄の述懐「僕が力道山のもとに入門したとき、当時の道場は渋谷のリキパレスの地下にありました。で、くらべてみると、やはり道場には太陽の光が入ってきた方がベターなんです。上野毛の道場は、練習が終わって外に出ると、大きな木陰で休む、その涼しさが爽快でね。空気もうまいし、素晴らしい環境なんです」
 (2010年8月、流智美氏インタビュー)
 
 
 

2月25日

新日本プロレス道場で、旗揚げシリーズに参加する外人選手が「公開練習」をおこなった。

小鉄や木戸、藤波が、ポスター貼りをしたり、猪木自らもチケットの販売、関係者への挨拶回り、と、まさに手づくりで「旗揚げ」の準備をすすめた。藤波は、2人一組で電柱にポスターを貼ったり、飛び込みでチケットを売りにいったという。

 藤波「新日本プロレスといってもわかりませんから、猪木さんの団体といって。でも、日本プロレスの力はありましたからね」
 藤波「なにしろ、猪木さんしか有名な選手はいないんですから、そう簡単には切符は売れなくてね。でも、応援してくれる人も(少ないですけど)いました」

この当時、「藤波では、戦力にならない」との評があり、これにはさすがに奮起した。
 

 3月6日●新日本プロレス旗揚げ

  

 3月 6日 新日本プロレス旗揚げ戦が、

大田区体育館で行われた。

 藤波は記念すべき「旗揚げ第1戦」を、エル・フリオッソと闘う

 初の外人との対戦。
 
「悪党フリオッソの凄まじい反則アタックに、若い藤波は、もみくしゃにされ、カウンターキックにダウンして4分20秒、フォール負け」と試合評される。


 豊登が特別参加して猪木に協力。タッグマッチに出場した。
 この日のメインは猪木対カール・ゴッチ。ゴッチはこの試合に所有のベルトをかけると宣言。
試合は、ゴッチの原爆固めを猪木が変化させ逃れるもゴッチのリバーススープレックスホールドが決まり、15分10秒ゴッチの勝ち。観客を酔わせ、新日本プロレスの「ストロングスタイル」の方向性を打ち出すものとなったといわれる。観客席には倍賞美津子夫人はもとより倍賞千恵子、坂本九、柏木由紀子夫妻の姿も見られた。 

       

 猪木「私たちは、力道山先生の精神を受け継ぎ、真のプロレスをやってゆきたいと思います」(猪木のリング上での挨拶から)
 猪木「お客が入ったんじゃなくて、入れたんです」(後の猪木のインタビューから)

 藤波「誠心誠意、精一杯のファイトをやっていれば、必ず、ファンは付いてきてくれる、と、いつも猪木さんが言ってましたし、僕も、そう思って、がんばりました」


※この大会の報道について(2022年創立50年の記事より)

 ・旗揚げ第一線の報道は、東京スポーツでさえ、猪木とゴッチの名勝負が3面の小さな記事になっただけで、しかも、小さな見出しが「船出・猪木丸 前途に不安ないか」とあおった。
 掲載された。一面の写真は豊登と猪木の握手の場面。隣にはその2倍の大きさで豪快な坂口の「アトミックドロップ」の写真。ただし日本プロレスのこの興行はタイトルマッチでもなくごく普通の試合(大木・坂口組 対 ハリーレイス・フローレンス組)
この試合を東京スポーツの「1面」が、大見出しで「坂口 余裕の原爆で気勢」「美獣を場外追放」と派手に載せた。
             (週刊プロレス・2022年3月23日号)

ーー試合データーー 
新日本プロレス旗揚げ戦
昭和47年(1972年)3月6日 大田区体育館

▼20分1本勝負
 ○エル・フリオッソ(4分20秒・エビ固め)藤波×

▼30分1本勝負
 ○イワン・カマロフ(12分20秒・体固め)木戸×
 ○魁(15分16秒・エビ固め)ブルックリン・キッド×
 △柴田(17分・両者リングアウト)インカ・ペルアーノ△

▼60分3本勝負タッグ
 豊登・山本(2ー1)ドランゴ兄弟1 ○山本(20分・体固め)ジョーン×
2 ○ジョーン(10分10秒・体固め)山本×
3 ○日本組(6分36秒・反則勝ち)外人組×

▼時間無制限1本勝負
 ○カール・ゴッチ(15分40秒・体固め)猪木×

^^^^^


 3月12日 
埼玉県所沢大会が、雨で中止となった。
実は、この大会は宣伝もされていなく(旗揚げ大会の準備で手いっぱいで、所沢大会は電柱に数枚のポスターを貼っただけ)、小雨の中、集まった観客は、わずか10人だったという。
 試合開始直前に本降りになって、4月2日に延期となった。雨の中、来てくれたファンに猪木が語ったり、藤波はじめ、若手の練習風景を公開したりした。
 小鉄「あのとき、本降りにならなかったら、試合はやったでしょうね。意地ですよ」(2010年インタビュー)


※このころのマスコミ報道について

小鉄「(日本プロレスの)芳の里と遠藤幸吉さんから「いいですか? 猪木のところを応援したら、今後、アンタのところはネタを振らないからね。わかってますよね?」と、新聞社にプレッシャーをかけていた。(こっちは)興行日程すら掲載されなかったんだから、悔しくて涙が出ました」
小鉄 「我々にはテレビもついてなかったから、(新聞に)日程が載らなかったら、あとはポスターを貼って、宣伝カーで派手にアピールするしかなかった。切符のほとんどが手売りで、10枚の前売り券を買ってもらうのに、猪木さんの出馬を仰ぐこともザラでしたよ」

藤波「僕は18歳でしたから、まだまだレスラー専業なんて身分じゃない。興行地のポスター貼りは必ず手伝いました。日本プロレスには「プロモーター協議会」みたいな組織がありましたから、まあ妨害がひどかった。僕が昼間に貼ったポスターを、わざわざ夜中に剥がしに来たなんて、日常茶飯事でしたよ。マジックで猪木さんの顔が黒く塗られているとかね。 陰険ですが、新しい団体が出来ると、そこまでするのか、という仕打ちの連続でしたよ」
                          (週刊プロレス・2022年3月23日号)



3月16日藤波、初勝利!

愛媛大会。藤波は、この日デビューの浜田からプロレス入り初のシングル勝利
なお、藤波は、この日はバトルロイヤルでも新日初優勝。


藤波「浜田は、むりやりデビューさせた。器用だったし、柔道が出来たから、なんの練習もしなくてもやれました。寝技は僕以上にテクニックがあったし」(2016年、浜田のデビュー戦を振り返って)

◆3月16日 愛媛・愛媛県民会館
 ▼20分1本勝負
  ○藤波(9分55秒・逆エビ固め)浜田×
 
 
 
3月23日
茨城大会。この日は、関東での興行で、各スポーツ紙の記者が観戦に訪れている。ただ、「観客は少なく閑散としていた」(流智美氏・2012年)
バトルロイヤルも行われた。

藤波「観客があんまり少ないと、猪木さんは「やめよう」というが、山本さんが、血気盛んで「やろう」といいました。で、やりました。」
当時、猪木が出ても、観客数十人で、メインをやったこともあるそうな。(2012年DVDより)、



4月 6日


越谷大会でシリーズ最終戦。旗揚げオープンニングシリーズ第1弾は全14戦だった。この日のメインは、猪木・柴田組が2-1でジョンドランゴ・ペルアーノ組に快勝。

猪木は、試合後「日本テレビが俺のところにきたよ」と爆弾発言。
 この数日前に、NETテレビに馬場が坂口とともに登場して、日本テレビを激怒させていた。
4月7日の実況中継で担当の徳光アナが「あと何回馬場さんの試合を放送できるかなあ」と漏らしていたという。このテレビ中継問題も、日本プロレスが崩壊への道を転げ落ちてゆく要因になった。

新日本プロレスの地方会場では、実力も知名度もない外人を相手に快勝する猪木に、「猪木、つまんねえぞ」のヤジも飛び、観客動員数も伸びなかった。   

  ◆4月6日 埼玉・越谷市体育館
 ▼20分1本勝負
  ○藤波(11分54秒・足固め)浜田×
 
 
 
 4月28日
 
この日、千葉で「旗揚げオープニングシリーズ第2弾」が開幕。5月24日の盛岡大会まで全国を廻り、全14戦。
当初、ビル・ロビンソンの参加がうわされていたが実現せず。まったく名前の知られていない外人選手を相手に、猪木の孤軍奮闘が続く。
 
◆旗揚げオープニング・シリーズ第2弾 4月28日 千葉・千葉県体育館
 ▼20分1本勝負
  ○藤波(16分18秒・逆エビ固め)浜田×
    

 藤波は、連日、浜田との第一試合に出場。前シリーズの4月2日以来、14試合連続で対浜田戦。戦績は13勝1引き分け。藤波はまた猪木の付け人としてセコンドにもつく。

 選手も営業スタッフも不足し、苦しい興行が続く。
 藤波は連日、浜田との第一試合に勝利してゆく。
※秩父での大会(興行日未詳)では、観客がわずか10名であったという。(藤波著「無我」による)
  藤波「思い出の中で、 秩父大会は観客が数十名。小鉄さんは「ひとりでも来てくれたらやる」と発言した」(2012年インタビュー)


このころの藤波に対して「黙々と、第一試合で、浜田と闘う姿は、僕は認めていたねえ」(2012年新間氏インタビュー)


 47.5.11 
  大阪府立 猪木の先導をする藤波
猪木・柴田組のセコンドにつく藤波

◆5月11日 大阪・大阪府立体育会館
 ▼15分1本勝負
  ○藤波(13分38秒・体固め)浜田×
 
 
 
 
 
6月13日
 
旗揚げオープニングシリーズ第3弾が開幕。初戦は大田区体育館。7月4日の姫路大会まで全10戦。なお、この日から浜田が「リトル浜田」と改名。

このシリーズは、日本プロレスからの妨害もあり、ゴッチのルートにたよるだけでは、前にもまして有力外人選手が参加しておらず、
このシリーズも猪木の独り舞台か」と新聞にも書かれてしまい、事実、その通りになった。
これといった話題もないため、東京スポーツをはじめマスコミの扱いも小さかった記憶がある(RSD)
 
◆旗揚げオープニング・シリーズ第3弾 6月13日 東京・大田区体育館
 ▼15分1本勝負
  ○藤波(10分21秒・逆さ押さえ込み)浜田× ※この日から「リトル浜田」
 
 
 
 6月27日 ●藤波、外国人選手から、初勝利!

藤波がリック・ニールから回転エビ固めで勝利。外人から初の勝利であるとともに、このリック・ニールは「旗揚げオープニングシリーズ第3弾」のエース級外人でもあり、「金星」といえる。このときの藤波は、身長186センチ体重は90キロ(パンフレットによる)
 リック・ニール

  「僕に負けるようじゃ、きっとどうしようもない選手だったんでしょうが・・(笑)、でも、勝ててよかったです」(2012年藤波)
 
◆6月27日 長野・諏訪湖スポーツセンター
 ▼20分1本勝負
  ○藤波(14分28秒・回転エビ固め)リック・ニール×
 
 
 
7月 7日 新しい事務所が南青山の「井植ビル」にオープン。
 
7月24日
豊中で「ニューサマーシリーズ」が開幕。最終戦の8月30日板橋区体育館まで、北海道から全国を廻り全22戦を行った。

このころから、ファンの間でも、「新日本の会場は、活気がある」とも言われはじめた。このシリーズには、力道山時代の映画俳優レスラー・ハロルド坂田も参戦。映画「007ゴールドフィンガー」の役の格好で、トレードマークの山高帽を持参して日本側について参戦し話題となった。(8月1日の帯広大会では猪木と組み、メインに登場も、それ以外のレスリングの試合に関しては、特記事項なし)

後日、藤波が新日本プロレスの長い歴史を語るとき「ハロルド坂田やブラッシーとも闘っています」とよく話題にしている。藤波との対戦やタッグは公式記録には見あたらない。おそらく「ともに闘って来た」という意味と思われる。
 
7月29日
 ジャイアント馬場が日本プロレスを退団して、全日本プロレスを設立することを表明。日本テレビや力道山家のおすみつきを頂き、馬場自身が渡米して外人選手を招聘する。十分な準備をして、秋には旗揚げとなる。

猪木は、このころから、馬場の全日本プロレスとの差別化を図り、ことあるごとに、新日本プロレスこそ「ストロング・スタイル」と表明。
 

 9月 9日千葉県の大原海岸で日本人全選手が合同合宿(11日まで)
 
         
9月16日
ニューゴールデン・シリーズ」が土浦大会で開幕。10月25日の富山まで全23戦。このシリーズは、レッド・ピンパネールがエース格。(10月4日から20日まではカールゴッチが特別参加。2度にわたって猪木と対戦するが、シーンリーガン・ピンパネールとタッグを組む時以外は、外人選手と対戦。)よって、マスコミにも「勝ってあたりまえの相手に、勝って、あたりまえ」という評があった。

新間氏「アベヤコブに覆面をかぶせてピンパネールにしたが、あれは苦肉の策。素顔の顔写真の上にマスクの絵を描いて発表した。当時は、それくらい金がなかった」
 
 

10月 2日
新日本の事務所で、猪木がゴッチに挑戦する選手権試合の調印式。猪木、ゴッチ、テーズの3人は、その後、力道山の墓に出向いた。マスコミに対するアピールに、起死回生を狙った意図がよくわかる。
 
 

10月 4日
猪木がカールゴッチを破り
 世界ヘビー級タイトルを奪取!

 蔵前で、猪木がゴッチのもつ世界ヘビー級選手権に挑戦し、リングアウトでこれを破る。
猪木が場外からロープ越にリングインして一瞬ゴッチよりもはやかった。27分17秒で猪木のリングアウト勝ち。レフェリーはルー・テーズ。この試合の模様は、東京12チャンネルが単発で放映。新日本プロレス初のテレビ中継だった。

藤波「あのゴッチの足の張りをみた?凄かったねえ」(試合前の控室で記者に)
この藤波の発言について、ファイト誌の井上編集長は「ああやって、盛り上げていく藤波に、うまさを感じた」という。
 

10月10日 大阪府立大会で、ゴッチが猪木の持つタイトル王座を奪回に成功。
10月16日 この日のスポーツ紙上で、猪木が「統一日本王者を決めよう」とぶちあげる。
 

10月18日
大分大会で、藤波がジョン・コワルスキーにフォール勝ち。
 このシリーズで、藤波はコワルスキーと6回対戦し、2勝4敗の成績をあげた。
   ジョン・コワルスキー
 
◆10月18日 大分・大分市体育館
 ▼20分1本勝負
  ○藤波(6分48秒・体固め)コワルスキー×
 
 
10月21日
町田で、全日本プロレスの旗揚げ前夜祭が行われる。
メインで、サンダー杉山とタッグを組んだ馬場は、サンマルチノ、テリーファンク組に2-1で敗れる。

 なお、この馬場の旗揚げは、世間にも大きなは話題を呼び、この日の試合結果が、日本テレビ系列のいろいろな番組で流された。 普段はプロレスの話題もないような深夜のラジオ番組でも、報道され、驚いた記憶がある。
「え~、馬場組が、負けました。 なに?負けたらいかんがな~」(桂三枝)
この日、新日本プロレスは、静かに前橋大会を開催していた。

 ※馬場が全日本を立ち上げたことで、いよいよ日本のプロレス界は変換期を迎える。「日本プロレス」「国際プロレス」「新日本プロレス」「全日本プロレス」の4団体の並立。
 

11月12日
和歌山県白浜大会で、「ニュー・ダイヤモンドシリーズ」が開幕。12月11日の仙台までの全20試合。
 藤波は、この日がデビュー戦である藤原喜明の相手をつとめる。この試合は「良いファイトだった」と猪木に誉められるも、次の対戦では「試合中に猪木に気合いを入れられた」という。(11月15日の高知大会か?)

このシリーズのパンフレットで、藤波のドロップキックが「飛び出しナイフと呼ばれる」と紹介された。
ちなみに、パンフレット表紙は「ライオンマーク」、売価100円。この新日本プロレスの「ライオンマーク」は、山本小鉄と藤波で作成し、小鉄がどんぶりを逆さにして輪郭を描き、ライオンをデザインした。英単語の「SPORTS」のスペルに二人とも自信がなかったため、近所の高校生に「これで、いいか?」と、確かめたという微笑ましいエピソードを持つ。
 
◆ニューダイヤモンド・シリーズ 11月12日 和歌山・白浜町坂田会館
 ▼20分1本勝負
  ○藤波(11分33秒・逆片エビ固め)藤原喜明×
 
 
 
11月23日
 福岡県甘木大会で、藤波はタッグマッチを初経験。藤原と組み、浜田・荒川と対戦した。
荒川・栗栖・藤原らの新人を迎えての藤波インタビューでは「新人が入って、いい刺激になります。稽古量が増えるから、力がつきいいファイトができます」と答えている。

 ※また、この頃を振り返って「気の抜けた試合をすると、控え室から猪木さんが飛び出してきて、ガツーンとやられた」とも。試合中にもかかわらず竹刀を持った猪木がリング上に飛び込んで滅多打ちにあったり、試合後にガツンとやられることもあり、若手は気が抜けなかったと。猪木の気合入れは、他の若手・中堅に指示をして「喰らわせる」こともあり、80年代になるまでときどき見られたそうである。
 
◆11月23日 福岡・甘木青果市場
 ▼20分1本勝負タッグ
  ○浜田・荒川(17分25秒・回転エビ固め)藤波・藤原×
             ※藤波の初タッグ
 
 
 
12月 ことし一年のしめくくりとして、箱根で特別キャンプをはった。
        
          この希望にあふれた笑顔の「新日軍団」を見よ!


----------

※このころまでの3年間(日本プロレス時代2年間と、新日本の1年間以上)を、
藤波は、猪木の付き人として過ごすわけであるが、そのころの生活を振り返って

  藤波「辛くて辞めたい、逃げたいということはありませんでした。自分が夢にみたプロレスに入ったわけですから、もう一所懸命ですよ。 早くデビューしたい、海外に遠征に出て、早くテレビのブラウン管に出られるようになりたい、チャンピオンになりたいと、次々と夢は持っていましたが、プロレス界の一員でいるだけで、ずっと夢の中にいるみたいなものでした。」                                                          (2014年)
 
 

つづく、「藤波さんの大年表1973年」に行きます。2022.9.20

 

 
※※ ※※※ ※※※ ※※※ ※
 
ご覧いただきありがとうございます。
 
お試し版です。この記述で、藤波さんの誕生から、令和4年の現在までを、
主に年毎に「年表風」にまとめようと思っています。
もうちょっと、見やすくできねえかなあ?(笑)
 
今、実は、「はてなブログ」というのでも作成を試しています。
もしもそっちに行ったら、お知らせします。
もちろん、お世話になっているamebaブログは継続します。
「年表」だけそっちにしようかと・・・
 
 
とにかく、「やってみましょう!」ということで、、、
 
藤波さんのデビュー50年を記念して、この「藤波さん大年表」(お試し版)を作りました。出典はいちいち記していません。独自研究(笑)を含みます。
ほぼ文字だけですが、たまに素敵な写真を専門誌紙、パンフレット等からお借りして載せています。もし、問題がありましたら、すぐに削除いたします、
よろしくお願いいたします。RSD
 
御覧いただいた感想を
コメントまたはメッセージで送っていただけたら幸いです。
また、記述に誤りや勘違いがありましたら、お知らせください。
アップ、2022.6.28 午後3時  RSD 
 
ありがとうございます! 「もっと少ない方が見やすい」と。むむむ。
精選ですね。それがなかなか難しいんですけど、、
ゆっくり楽しんでみていただけると嬉しいです。
かなりマニアックかな
2022.6.30 RSD