藤波さん大年表
◆この章◆1972-1977
藤波は、猪木のもと、新団体の旗揚げに全力を尽くす。旗揚げ第一試合をつとめる。苦しい団体経営を前座で支え、やがて海外遠征に出発する。ドイツからメキシコ、アメリカ転戦まで。
のまずは、最初の1年(1972年)だ。
道場開きより
●昭和47年(1972年) 18歳 いよいよ「新日本プロレス」旗揚げ
アントニオ猪木を追って、日本プロレスの合宿所から夜逃げ同然に引っ越した藤波は、猪木のマンションに一室を借りて住み込み、設立準備の事務所のソファーに寝ることもあったという。
藤波「当時、僕はマンション住まいですからね。すごいでしょ(笑)」
1月26日 猪木が京王プラザホテルで、「新日本プロレス」設立を発表。渋谷区猿楽町パシフィックマンション内に設置。代表猪木寛至。資本金1000万円。
1月29日
●道場の完成
猪木邸の庭に新日本プロレスの道場がオープン。世田谷区上野毛。
「すばらしい庭が、道場になっていましたからね。基礎は専門家がやってくれますが、われわれもお手伝いしましたよ」
午後4時から、記念の鏡割りで「やるぞー!」と気勢を上げたあと、猪木が木戸と藤波を相手に稽古をつける。この日、新人募集も行われる。だが、山本小鉄の厳しさに全員脱落。
道場開きの画像
道場にて
道場にて 練習しているのは木戸と藤波
猪木と山本の公開練習・後方に藤波の姿も
発見★こんな場面も!
●新日の事務所に、日本プロレスの選手が現れて
この当時、新日本プロレスの事務所には、猪木の関係者数人が寝起きしているだけで、旗揚げのため奔走する猪木は不在のことが多く、道場は山本小鉄が取り仕切った。道場破りが来ることもあり、小鉄や木戸がお相手をした。
日本プロレスの事務所はわずか数百メートル離れただけなので、血の気の多い日プロの選手等が殴り込みに来ることもあったという。
「猪木さんは、これ見よがしに、近くに事務所を開いたからな」(グレート小鹿) (「プロレス取調室」(2016))
ちょうど藤波はじめ選手が事務所にいるとき、日本プロレスの中堅レスラーが来ると、レスラー同士のトラブルをさけるため、選手は、事務所の奥に逃げ込むこともあったという。残った「一般人」には手を出さないだろうと。
「僕は奥に居て、声が聞こえたんだけど、小鹿さんはわかりました」藤波(同書)
「俺と林(牛之助)で、日本刀持っていったんだよ。冬だからオーバーを着て、懐に日本刀を持ってな」(グレート小鹿)(同書)
◎この道場について
山本小鉄の述懐「僕が力道山のもとに入門したとき、当時の道場は渋谷のリキパレスの地下にありました。で、くらべてみると、やはり道場には太陽の光が入ってきた方がベターなんです。上野毛の道場は、練習が終わって外に出ると、大きな木陰で休む、その涼しさが爽快でね。空気もうまいし、素晴らしい環境なんです」
2月25日
新日本プロレス道場で、旗揚げシリーズに参加する外人選手が「公開練習」をおこなった。
小鉄や木戸、藤波が、ポスター貼りをしたり、猪木自らもチケットの販売、関係者への挨拶回り、と、まさに手づくりで「旗揚げ」の準備をすすめた。藤波は、2人一組で電柱にポスターを貼ったり、飛び込みでチケットを売りにいったという。
藤波「新日本プロレスといってもわかりませんから、猪木さんの団体といって。でも、日本プロレスの力はありましたからね」
藤波「なにしろ、猪木さんしか有名な選手はいないんですから、そう簡単には切符は売れなくてね。でも、応援してくれる人も(少ないですけど)いました」
この当時、「藤波では、戦力にならない」との評があり、これにはさすがに奮起した。
3月6日●新日本プロレス旗揚げ
3月 6日 新日本プロレス旗揚げ戦が、
大田区体育館で行われた。
藤波は記念すべき「旗揚げ第1戦」を、エル・フリオッソと闘う。
初の外人との対戦。
「悪党フリオッソの凄まじい反則アタックに、若い藤波は、もみくしゃにされ、カウンターキックにダウンして4分20秒、フォール負け」と試合評される。
豊登が特別参加して猪木に協力。タッグマッチに出場した。
この日のメインは猪木対カール・ゴッチ。ゴッチはこの試合に所有のベルトをかけると宣言。
試合は、ゴッチの原爆固めを猪木が変化させ逃れるもゴッチのリバーススープレックスホールドが決まり、15分10秒ゴッチの勝ち。観客を酔わせ、新日本プロレスの「ストロングスタイル」の方向性を打ち出すものとなったといわれる。観客席には倍賞美津子夫人はもとより倍賞千恵子、坂本九、柏木由紀子夫妻の姿も見られた。
猪木「私たちは、力道山先生の精神を受け継ぎ、真のプロレスをやってゆきたいと思います」(猪木のリング上での挨拶から)
猪木「お客が入ったんじゃなくて、入れたんです」(後の猪木のインタビューから)
藤波「誠心誠意、精一杯のファイトをやっていれば、必ず、ファンは付いてきてくれる、と、いつも猪木さんが言ってましたし、僕も、そう思って、がんばりました」
※この大会の報道について(2022年創立50年の記事より)
・旗揚げ第一線の報道は、東京スポーツでさえ、猪木とゴッチの名勝負が3面の小さな記事になっただけで、しかも、小さな見出しが「船出・猪木丸 前途に不安ないか」とあおった。
掲載された。一面の写真は豊登と猪木の握手の場面。隣にはその2倍の大きさで豪快な坂口の「アトミックドロップ」の写真。ただし日本プロレスのこの興行はタイトルマッチでもなくごく普通の試合(大木・坂口組 対 ハリーレイス・フローレンス組)
この試合を東京スポーツの「1面」が、大見出しで「坂口 余裕の原爆で気勢」「美獣を場外追放」と派手に載せた。
(週刊プロレス・2022年3月23日号)
ーー試合データーー
新日本プロレス旗揚げ戦
昭和47年(1972年)3月6日 大田区体育館
▼20分1本勝負
○エル・フリオッソ(4分20秒・エビ固め)藤波×
▼30分1本勝負
○イワン・カマロフ(12分20秒・体固め)木戸×
○魁(15分16秒・エビ固め)ブルックリン・キッド×
△柴田(17分・両者リングアウト)インカ・ペルアーノ△
▼60分3本勝負タッグ
豊登・山本(2ー1)ドランゴ兄弟1 ○山本(20分・体固め)ジョーン×
2 ○ジョーン(10分10秒・体固め)山本×
3 ○日本組(6分36秒・反則勝ち)外人組×
▼時間無制限1本勝負
○カール・ゴッチ(15分40秒・体固め)猪木×
3月12日
試合開始直前に本降りになって、4月2日に延期となった。雨の中、来てくれたファンに猪木が語ったり、藤波はじめ、若手の練習風景を公開したりした。
小鉄「あのとき、本降りにならなかったら、試合はやったでしょうね。意地ですよ」(2010年インタビュー)
※このころのマスコミ報道について
小鉄「(日本プロレスの)芳の里と遠藤幸吉さんから「いいですか? 猪木のところを応援したら、今後、アンタのところはネタを振らないからね。わかってますよね?」と、新聞社にプレッシャーをかけていた。(こっちは)興行日程すら掲載されなかったんだから、悔しくて涙が出ました」
小鉄 「我々にはテレビもついてなかったから、(新聞に)日程が載らなかったら、あとはポスターを貼って、宣伝カーで派手にアピールするしかなかった。切符のほとんどが手売りで、10枚の前売り券を買ってもらうのに、猪木さんの出馬を仰ぐこともザラでしたよ」
藤波「僕は18歳でしたから、まだまだレスラー専業なんて身分じゃない。興行地のポスター貼りは必ず手伝いました。日本プロレスには「プロモーター協議会」みたいな組織がありましたから、まあ妨害がひどかった。僕が昼間に貼ったポスターを、わざわざ夜中に剥がしに来たなんて、日常茶飯事でしたよ。マジックで猪木さんの顔が黒く塗られているとかね。 陰険ですが、新しい団体が出来ると、そこまでするのか、という仕打ちの連続でしたよ」
(週刊プロレス・2022年3月23日号)
3月16日●藤波、初勝利!
愛媛大会。藤波は、この日デビューの浜田からプロレス入り初のシングル勝利。
なお、藤波は、この日はバトルロイヤルでも新日初優勝。
藤波「浜田は、むりやりデビューさせた。器用だったし、柔道が出来たから、なんの練習もしなくてもやれました。寝技は僕以上にテクニックがあったし」(2016年、浜田のデビュー戦を振り返って)
◆3月16日 愛媛・愛媛県民会館
▼20分1本勝負
○藤波(9分55秒・逆エビ固め)浜田×
藤波「観客があんまり少ないと、猪木さんは「やめよう」というが、山本さんが、血気盛んで「やろう」といいました。で、やりました。」
当時、猪木が出ても、観客数十人で、メインをやったこともあるそうな。(2012年DVDより)、
4月 6日
越谷大会でシリーズ最終戦。旗揚げオープンニングシリーズ第1弾は全14戦だった。この日のメインは、猪木・柴田組が2-1でジョンドランゴ・ペルアーノ組に快勝。
猪木は、試合後「日本テレビが俺のところにきたよ」と爆弾発言。
この数日前に、NETテレビに馬場が坂口とともに登場して、日本テレビを激怒させていた。
4月7日の実況中継で担当の徳光アナが「あと何回馬場さんの試合を放送できるかなあ」と漏らしていたという。このテレビ中継問題も、日本プロレスが崩壊への道を転げ落ちてゆく要因になった。
新日本プロレスの地方会場では、実力も知名度もない外人を相手に快勝する猪木に、「猪木、つまんねえぞ」のヤジも飛び、観客動員数も伸びなかった。
◆4月6日 埼玉・越谷市体育館
▼20分1本勝負
○藤波(11分54秒・足固め)浜田×
当初、ビル・ロビンソンの参加がうわされていたが実現せず。まったく名前の知られていない外人選手を相手に、猪木の孤軍奮闘が続く。
▼20分1本勝負
○藤波(16分18秒・逆エビ固め)浜田×
藤波は、連日、浜田との第一試合に出場。前シリーズの4月2日以来、14試合連続で対浜田戦。戦績は13勝1引き分け。藤波はまた猪木の付け人としてセコンドにもつく。
選手も営業スタッフも不足し、苦しい興行が続く。
※秩父での大会(興行日未詳)では、観客がわずか10名であったという。(藤波著「無我」による)
藤波「思い出の中で、 秩父大会は観客が数十名。小鉄さんは「ひとりでも来てくれたらやる」と発言した」(2012年インタビュー)
このころの藤波に対して「黙々と、第一試合で、浜田と闘う姿は、僕は認めていたねえ」(2012年新間氏インタビュー)
47.5.11
大阪府立 猪木の先導をする藤波
◆5月11日 大阪・大阪府立体育会館
▼15分1本勝負
○藤波(13分38秒・体固め)浜田×
このシリーズは、日本プロレスからの妨害もあり、ゴッチのルートにたよるだけでは、前にもまして有力外人選手が参加しておらず、
「このシリーズも猪木の独り舞台か」と新聞にも書かれてしまい、事実、その通りになった。
これといった話題もないため、東京スポーツをはじめマスコミの扱いも小さかった記憶がある(RSD)
▼15分1本勝負
○藤波(10分21秒・逆さ押さえ込み)浜田× ※この日から「リトル浜田」
藤波がリック・ニールから回転エビ固めで勝利。外人から初の勝利であるとともに、このリック・ニールは「旗揚げオープニングシリーズ第3弾」のエース級外人でもあり、「金星」といえる。このときの藤波は、身長186センチ体重は90キロ(パンフレットによる)
「僕に負けるようじゃ、きっとどうしようもない選手だったんでしょうが・・(笑)、でも、勝ててよかったです」(2012年藤波)
▼20分1本勝負
○藤波(14分28秒・回転エビ固め)リック・ニール×
7月24日
このころから、ファンの間でも、「新日本の会場は、活気がある」とも言われはじめた。このシリーズには、力道山時代の映画俳優レスラー・ハロルド坂田も参戦。映画「007ゴールドフィンガー」の役の格好で、トレードマークの山高帽を持参して日本側について参戦し話題となった。(8月1日の帯広大会では猪木と組み、メインに登場も、それ以外のレスリングの試合に関しては、特記事項なし)
後日、藤波が新日本プロレスの長い歴史を語るとき「ハロルド坂田やブラッシーとも闘っています」とよく話題にしている。藤波との対戦やタッグは公式記録には見あたらない。おそらく「ともに闘って来た」という意味と思われる。
猪木は、このころから、馬場の全日本プロレスとの差別化を図り、ことあるごとに、新日本プロレスこそ「ストロング・スタイル」と表明。
9月 9日千葉県の大原海岸で日本人全選手が合同合宿(11日まで)
9月16日
新間氏「アベヤコブに覆面をかぶせてピンパネールにしたが、あれは苦肉の策。素顔の顔写真の上にマスクの絵を描いて発表した。当時は、それくらい金がなかった」
10月 2日
10月 4日
蔵前で、猪木がゴッチのもつ世界ヘビー級選手権に挑戦し、リングアウトでこれを破る。
猪木が場外からロープ越にリングインして一瞬ゴッチよりもはやかった。27分17秒で猪木のリングアウト勝ち。レフェリーはルー・テーズ。この試合の模様は、東京12チャンネルが単発で放映。新日本プロレス初のテレビ中継だった。
藤波「あのゴッチの足の張りをみた?凄かったねえ」(試合前の控室で記者に)
この藤波の発言について、ファイト誌の井上編集長は「ああやって、盛り上げていく藤波に、うまさを感じた」という。
10月10日 大阪府立大会で、ゴッチが猪木の持つタイトル王座を奪回に成功。
10月16日 この日のスポーツ紙上で、猪木が「統一日本王者を決めよう」とぶちあげる。
10月18日
このシリーズで、藤波はコワルスキーと6回対戦し、2勝4敗の成績をあげた。
ジョン・コワルスキー
▼20分1本勝負
○藤波(6分48秒・体固め)コワルスキー×
なお、この馬場の旗揚げは、世間にも大きなは話題を呼び、この日の試合結果が、日本テレビ系列のいろいろな番組で流された。 普段はプロレスの話題もないような深夜のラジオ番組でも、報道され、驚いた記憶がある。
この日、新日本プロレスは、静かに前橋大会を開催していた。
※馬場が全日本を立ち上げたことで、いよいよ日本のプロレス界は変換期を迎える。「日本プロレス」「国際プロレス」「新日本プロレス」「全日本プロレス」の4団体の並立。
11月12日
藤波は、この日がデビュー戦である藤原喜明の相手をつとめる。この試合は「良いファイトだった」と猪木に誉められるも、次の対戦では「試合中に猪木に気合いを入れられた」という。(11月15日の高知大会か?)
このシリーズのパンフレットで、藤波のドロップキックが「飛び出しナイフと呼ばれる」と紹介された。
ちなみに、パンフレット表紙は「ライオンマーク」、売価100円。この新日本プロレスの「ライオンマーク」は、山本小鉄と藤波で作成し、小鉄がどんぶりを逆さにして輪郭を描き、ライオンをデザインした。英単語の「SPORTS」のスペルに二人とも自信がなかったため、近所の高校生に「これで、いいか?」と、確かめたという微笑ましいエピソードを持つ。
▼20分1本勝負
○藤波(11分33秒・逆片エビ固め)藤原喜明×
荒川・栗栖・藤原らの新人を迎えての藤波インタビューでは「新人が入って、いい刺激になります。稽古量が増えるから、力がつきいいファイトができます」と答えている。
※また、この頃を振り返って「気の抜けた試合をすると、控え室から猪木さんが飛び出してきて、ガツーンとやられた」とも。試合中にもかかわらず竹刀を持った猪木がリング上に飛び込んで滅多打ちにあったり、試合後にガツンとやられることもあり、若手は気が抜けなかったと。猪木の気合入れは、他の若手・中堅に指示をして「喰らわせる」こともあり、80年代になるまでときどき見られたそうである。
▼20分1本勝負タッグ
○浜田・荒川(17分25秒・回転エビ固め)藤波・藤原×
※藤波の初タッグ
この希望にあふれた笑顔の「新日軍団」を見よ!
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※このころまでの3年間(日本プロレス時代2年間と、新日本の1年間以上)を、
藤波「辛くて辞めたい、逃げたいということはありませんでした。自分が夢にみたプロレスに入ったわけですから、もう一所懸命ですよ。 早くデビューしたい、海外に遠征に出て、早くテレビのブラウン管に出られるようになりたい、チャンピオンになりたいと、次々と夢は持っていましたが、プロレス界の一員でいるだけで、ずっと夢の中にいるみたいなものでした。」 (2014年)
つづく、「藤波さんの大年表1973年」に行きます。2022.9.20