断捨離と去行【1】 | すた・ばにら

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2019/11/29にYahoo!ブログ「すた・ばにら」より移植処理しました。

これはさすがにローカルSNSで書くわけにはいかない。特に私が後半部の「去行」とでも言える概念を持ち出せば、誤解されトモダチを失うことになりかねない。
実際、やや極論で人間味のない主張となるが、不真面目な気持ちで書いている積もりはない。
なお、気の向くままダラダラ何編か書き連ねる予定なので本編を【1】としておいた。
 
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断捨離(だんしゃり)。
去年か一昨年くらいに、その奇妙な語を頻繁に耳にするようになった。
ただし「去行」は後で説明するように私が全く思い付きで作った言葉である
最初にこの言葉を知ったのは、東京在住のローカルSNSメンバーのブログ記事だった。さすがは情報の発信源に近いと、片田舎な山口よりホットだなーと思われたものだった。
 
我々の周りにはあまりにもモノが溢れている。断捨離とはヨガの断行・捨行・離行の考えを取り入れ、不要なものを断ち、捨て、モノへの執着から離れることを意味するとされる。
 
「Wikipedia - 断捨離」
 
私はこのようなマスコミによって半ば人為的に広められた造語にはあまり与しないのだが、この概念はこれからの時代によく呼応しているように思われるし、更に拡張して自分流の解釈をしている。
 
有形なモノはもちろん、無形のモノ(概念・習慣)の”断捨離”は、生活の簡素化に直結している。無闇やたらと今まで持っていなかった新しいモノや、さほど重要とも思われない習慣を自分の生活空間に存置させると、便利さよりも弊害の方が上回る場合もある。
 
しかし多くの人はそれほど頓着しているとは思われない。「別に深く考えていなかったから」「誰もが普通にしていることだから」というのが主な理由である。
 
多くの人が普通に持っているにもかかわらず、この記事を書いている現時点で私独自の考えで生活空間から排除した有形なモノを全く思い付くまま書いてみた:
 
・テレビ
・新聞
・週刊誌や雑誌
・腕時計
・シャンプー
 
最初の3つは情報源に関するものである。いずれもインターネットがあるから実生活になくても特に不便はない。テレビは最新のニュースに触れるのには好適だが、私にとってはテレビを置く場所をとられ、更に受信料という七面倒くさい問題に煩わされるデメリットの方が大きい。まして教育的な番組に乏しく、そして今後もそういう番組が造られる可能性が薄ければ、「終わったメディア」と映る。
テレビが無いなら付随して新聞も必要ない。紙資源の無駄であり、ゴミ出しの手間を考えればタダで配達してやると言っても要らない。
最寄りのスーパーのチラシだけ配達してくれれば足りる
 
週刊誌や雑誌も場所を取るというだけで生活空間から排除したい理由に足りる。書籍は必要だとは思う。いくらネットで調べて同じ情報が見つかるとは言っても、パソコンの前まで行って所定の操作をしなければならない。書籍はパッと開くだけだから明らかな優位性が認められる。なくなることがないメディアと思う。
しかし場所を取るというデメリットは確かにあるので私は本を買わない
 
腕時計は時間に縛られたサラリーマンならともかく、私には全く必要ない。時間を知りたいならケータイの時計で充分である。腕に装着すれば重たいし鬱陶しい異物だ。何より腕時計が招く弊害は、人と会合しているとき目を遣るあの醜悪な仕草だ。時間が気になるならハッキリ会話に上せれば良いのであって、話している最中チラチラ時計を見る人は帰りたいのだろうと解釈されるし、それなら思わせぶりな態度ではなくキチンと言えば良いのにと思ってしまう。
 
シャンプーは身体にも環境にも悪い。そもそも髪を洗うのではなく、洗うべきは頭皮だ。本当は頭皮の脂も必要だから分泌されるのであって完全に除去するのが必ずしも身体に良いとは言えない。しかし脂が付いたままだと埃が付着しやすく不潔だし、臭いで他人に不快感を与えるから頭を洗うのである。その目的だけなら顔や身体を洗う石けんで足りる。そう広くもない風呂場に石けん、シャンプー、リンス、トニック…等々あれこれ置くメリットを感じない。
もっともこれは女性にも必ず当てはまるとは言いきれない
 
全く思い付くまま書いてみたが、自己流に解釈された断捨離は”以前はあったものを排除する”に留まらない。”今以上に必要性の薄いモノを増やさない”ことも含まれる。巷ではiPhoneを始めとするモバイル機器が人気を博しており、猫も杓子もといった感じがあるが、正直まったく興味がない。それはさしあたって今の自分の生活に必要ないからである。人が持っていようが人気があろうが、要らないものは要らない。タダで呉れてやると言っても断るだろう。これ以上、自分の生活に厄介なモノを導入したくない。
ただ、吟味した結果真に生活に必要だと判断されればそのときに導入するだろう…人が持っているからなんて理由で持つというのが断捨離の精神に反する
 
自己流に拡張解釈された断捨離は、有形のモノに限定されない。習慣など無形のモノに対しても適用される。
 
・年賀状
・お歳暮、お中元
・忘年会と称しての呑み会
 
実はこれらの排除は、断捨離なんて言葉が生まれる十数年も前からやっていた。ただし断っておくことに、このことは年賀状を出すことやお世話になった人へのご挨拶が並べて無駄なものと考えているわけではない。要はその内容である。
 
多くの人が未だに年の瀬を前に大量の年賀はがきを買い求め、親戚や友人宛ならともかく、会社の上司や同僚へのお座なりな賀状書きに無駄な時間を費やしている実態がある。「仕事で世話になった人には出すべきだ」という、訳のわからない呪縛に捕らわれ、何を書けば良いかと頭を悩ませ、書くことがないと嘆き、挙げ句には面倒だから印刷屋に頼んでバサッと刷ってもらったものに宛名だけ手書きして投函する。受け取った相手は抽選番号の発表までは取りあえず保管しているが、外れと分かった時点で正月前にしか人目に触れない賀状差しへ葬られるか捨てられるかである。時間と紙資源の無駄であり、こういう馬鹿げた習慣もまた20世紀へ置き去りにすべきだった。
 
しかし賀状を一切書かないと宣言するのは困難だろう。ましてお歳暮やお中元、そして忘年会も排除となると、人間味がないとか言われる原因にもなるだろう。それがモノの排除たる断捨離と違い、相手が存在することだからだ。自分の判断だろうが、相手に違和感や不快感を与えることも有り得る。
 
さて、私はこのブログ記事の中に「去行」という訳のわからない造語を忍ばせた。これは決して積極的に提唱されるべきものとは思われないが、常軌を逸しない範囲で必要なのではないか…と最近思い始めたある断捨離の一形態である。
 
(「断捨離と去行【2】」に続く)