山陽本線・3線区間立体交差を訪ねる【下】 | すた・ばにら

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2019/11/29にYahoo!ブログ「すた・ばにら」より移植処理しました。

 
さて、時間を巻き戻さなければならない。
一連の写真を撮る前に、気になるものを見つけてある場所へ立ち寄っていたのだ。
 
これは今からお伝えしようとする該当物件の踏査を終えた後、第1二ノ瀬橋りょうへ向かう直前である。
 
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更に大きく時間を巻き戻し、私が現地でこの物件に初めて気付く直前にまで時間軸を移すことにしよう。
 
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自転車での進入が問題ないと確信した後、私は既に見えかけているあのコンクリートのジャングルジム目がけて農道を進んでいた。
農道は田の畦畔に沿って伸び、用水路と共に本線の築堤へぶつかったところで直角に右へ折れていた。
 
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ん?
何か藪の中に怪しいものが…
 
用水路の左側は民家の敷地らしく、畑にコンポストなどが置かれている。その裏手はすぐ本線の盛土で、激藪の主たちが我が物顔で蔓延っている。
そこに黒々とした穴がぽっかり空いているのであった。
  
当然、自転車を停めて接近した。
 
隧道らしき坑口が見える。いや、本線の築堤だから、多分立体交差だろう。
しかし坑口の前には樹木が育っており、周囲もかなり草木に蹂躙されている。正体が何であれ、廃モノの臭いをプンプン漂わせていた。
 
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農道も用水路もまったくその隧道に頓着する素振りがなく、坑口を蹴って第1二ノ瀬橋りょうに伸びている。
 
何か事情を隠し持っていそうだ。
 
坑口は、この農道とは繋がっていない。線形的には今まで進んできたまま直進すればこの隧道にぶち当たる。しかし用水路には橋が架かっておらず、ここから直接到達する手段がない。
用水路の幅は3m以上…ジャンプでとても飛び越せるものではなかった
 
この時点で探ってみたい気持ち半分、放置して取りあえずお目当てのジャングルジムに向かおうという気持ち半分だった。坑口前の藪が酷い上に、そこへ到達するには、あの民家の畑裏をお邪魔する以外なかったからだ。
5月入りして急激にケムシ類が増えたことも気持ちを萎えさせた…なるべく木々の下や草地を歩きたくなかった
最終的には、滅多に来ることができない場所へ自転車で遠出しているという点が踏査を後押しさせた。
 
農道を少し戻ったところに、用水路を渡ってあの畑へ通じる簡素な石橋があった。恐らく民家の方が架けたのだろう。そこをサッと渡り、畑に足を踏み入れないように水路のコンクリート壁上を伝って隧道に接近した。
 
坑口へ到達。
コンクリート製とも思われたが、どうやらモルタルを塗っただけのようだ。下地の赤レンガが既に露出している。 
 
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足元の草木を蹴散らし、少しでも覗き込みやすい右側へ移動する。
接近前から分かっていたように、内部は閉塞しているらしく明かりが見えない。西日の差す時間帯で坑口とは真反対に太陽が位置するせいか、未だ内部がどうなっているかは分からなかった。
 
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隧道好きなくせに、中を覗き込むのは正直あまり気持ちは良くはない。
特にこの隧道は何とも言えぬ薄気味悪さがあった。
奥からは全く明かりが漏れず、完全に閉塞しているようだ。
 
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更に草木を掻き分け、やっと正面に辿り着いた。
自分の身体が影にならないよう少し身をかわし、外からの光を取り込むように工夫して撮影した。
 
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内部は赤レンガの全巻きだが、こちらから見て出口付近の数メートルほどはコンクリートで継ぎ足されていた。突き当たりの構造がどうなっているか分からないが、石垣のようなものが立ちはだかっているようだ。 
 
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天井部分。
目地モルタルのアルカリ分が流れ出て白化している。黒い部分はカビか物を燃やして発生した煤が付着しているのか判然としない。
 
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手前はまだしも、内部の奥へ進むにしたがって足元のゴミが酷かった。なるべく観たくなかったし、撮影するときもカメラの視野から意図的に外した。
 
先が閉塞している以上、この隧道部分が廃されているのは明らかだった。それも正直な話、廃された後は惨めな顛末を歩まされたように感じた。
天井のレンガが古びているのは歴史を物語る経年変化だから受け入れられるとして、足元に転がるゴミの山は見苦しいだけだった。それも殆どが黒こげだったり灰と化していることから、焼却炉代わりにされていたらしい。
 
カメラを背けたのは、ファインダーから汚物を排除したかっただけではない。縁起でもない話だが、レンガのアーチ内に黒々とした燃えかすや灰が積み上がっている状況は、火葬場の炉を連想してしまうからだ。実際、足元の焼却灰をガサゴソやっていたら、人骨が出てきそうな禍々しい雰囲気だった。
岩鼻にある宇部線の旧経路橋台跡も近所の家の焼却炉代わりにされて黒こげ状態…かくも遺構というものは粗末に扱われてしまう運命なのだろうか…
 
それ故に一番奥まで踏み込もうという気力がまったく湧かなかった。
どのみち閉塞しているのだから、ズーム撮影する。
 
その写真は真っ黒なので、明るさ補正してみた。
奥の方でレンガ巻きはコンクリートに変わり、そこで手前にせり出た石積みに突き当たって終わっていた。
 
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この石積みに何の意味があるのか分からない。
後から塞いだのなら、間知石の目地にモルタルを充填するなんて丁寧なことをする筈がない。水抜きのパイプが見えるから、当初からあった石垣だ。
 
そうなると、このアンダークロスの通路は石積みにぶちあたる形で造られていたことになる。コンクリートの延伸部分は精々2~3mだから、隧道を出てすぐの場所に石積みがあれば、一般車は通れない。元から精々、農作業のトラクターを通す程度の設計だったようだ。
 
いずれにせよ、長居したくなる場所ではない。
熟考するのはアジトへ戻ってからにするとして、最後に動画撮影だけ敢行した。
 
 
 
現地ではこの後すぐに農道まで戻り、お目当てのオーバークロスを眺めてきたのであった。
帰るときはもはや一瞥さえ加えなかったが、何の目的であの隧道が設置され、廃されることになったのか自転車を漕ぎつつ少し考えた。
 
最初に考えたのは、第1二ノ瀬橋りょうが造られる以前の農道跡ではないだろうかという推測だった。
それと言うのも農道はあの隧道手前で右へ折れていて、用水路さえ気にしなければ、素直に直進すればちょうど隧道の線形と一致する。
第1二ノ瀬橋りょうを造るために本線の盛土部を切り崩し、3階建てのコンクリートのジャングルジムを完成させた…大型ダンプでさえ通れそうな幅と高さの道が出来たので、農道を付け替えた…車が通れないあの隧道が不要になったので用水路を跨ぐ橋を取り除き、隧道部も廃された…というシナリオだ。
 
このシナリオは、廃隧道の行く先に出口があり、今の第1二ノ瀬橋りょうがある場所には道も何もなかったなら成立するだろう。
しかし必ずしもその通りではないということが、現在の航空映像および昭和49年代の映像から判明した。 
 
例によって、昭和49年度までタイムスリップしてみることにする。
 
「国土画像情報閲覧システム - 小野田市千崎西付近の航空映像」
 
第1二ノ瀬橋りょうが竣工したのが昭和43年であることを反映して、航空映像では既に今の形ができている。塩梅良く、3線を厚狭方向から小野田駅に向かっている貨物列車が疾走しているのが見える。
例の廃隧道がある一番近い場所の民家は既に姿を現している。県道は対面交通だし、もちろん山陽自動車道は見えない。しかしその他は意外に昔からさほど変わっていないようだ。
 
問題となる廃隧道付近も現在とあまり変わっていない。本線の下を横断した隧道の行き着く先は、明白な地山である。どう見ても同じ高さで田畑が広がっているようには見えない。
しかしそうなると、あの廃隧道の存在意義が理解できない。出口のあてもない山に向かって立体交差用の隧道を設置するわけがないのだ。
 
航空映像では見えないだけで、あの先には歩く人ならどうにか抜け出られる山道があったのではなかろうか。閉塞した先に見えた石積みがそのことを示唆している。
 
恐らくはあの場所には、昔から慣習的に通行されていた里道(赤線)が存在したのだろう。本線が敷設されることになった明治期において既に”勝手に潰すことができない経路”と認識され、レンガ巻きの隧道を造って通行に供されたのだろう。
 
些か決め手に欠けるが、以上が現地で撮影した写真および手にすることのできる映像資料を元に、私なりに推測した結果である。
 
歴史的に見れば、レンガ巻きの廃隧道が第1二ノ瀬橋りょうより一時代以上も昔の遺構であることは確実で、時代の下った今、その生い立ちをつまびらかにすることは恐らく絶望的だろう。
もしかして坑口の壁面にプレートがあるかも知れない…しかしそのためだけに再度あのゴミ焼却炉的な遺構を訪ねるというのは…誰が手掛けるだろうか
 
すべての踏査を終えて農道を戻り、来るとき目に着いた庚申塚のところへ自転車を停めて小休止した。
 
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明治期に鉄道が通され、人々および物資の大動脈を担ってきた山陽本線。
そして昭和期の高度経済成長期の要求に応え、ここ千崎西という地に巨大なオーバークロスを造る工事が進められた。
今でこそ静かな農村地帯だが、昭和40年代初頭は資材を運ぶ大型車が行き交い、重機や作業員が終結し、巨大なジャングルジムを創り上げるドラマがあった。その裏で、人知れず静かに眠りに就く遺構もあったのだ。
 
ジャングルジムに背を向けてはいるものの、この庚申塚も明治期に鉄道が通じ、あの巨大なオーバークロスが造られ、平成の時代を迎えて貨物輸送が廃されるまでの経緯を静かに見守ってきた筈だ。
 
また、ここに訪れることがあるだろうか。
私が訪れなくとも、貨物列車が通らず不要となったオーバークロスの最上段部分は今後もずっとその姿を遺し、私以降の人々に歴史を語りかけてくれるだろうか。
 
背を向けて自転車のペダルを踏み込み、市道を走り去るその時にもジャングルジムを潜る列車は、遺構の存在も意識せず軽いレール音を私の耳まで届けつつ走り去って行ったのだった。