楽山の不感不応 | ウソの国ー詩と宗教(戸田聡 st5402jp)

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  楽山の不感不応
 
 『自分の時間』ベネット著
 2020年09月30日 楽山日記(LD)
 http://mn266z.blog.jp/archives/26453434.html
 
 
批判されても、びくともしないと言いたいのでしょうか。しかし、それは、自分の責任を負うた人において成り立つことです。楽山の場合は、びくともしない厚顔無恥を表すだけになります。
 
楽山は、まるで手ごたえのない、クラゲか、コンニャクのような男ですから、こちらも、ストレスがたまらないように、レクイエ―ションを図りながら、書けるあいだ、書いてゆくしかありません。
 

最近は、時間の有効利用についてよく考えているのだが、先日とある書店に入ったら、本書が一番目立つところに立てかけてあったので、即、購入して読んでみた。結果は、まずまずの当たり本だ。
その内容はどうかといえば、朝の時間を活用するだとか、実践は先延ばしするのでなく、すぐ始めることだとか、いきなり大計画を立てるのでなく、実現可能なことからはじめて小さな成功を積み重ねて行くだとか、わりと王道的なことが書いてあるのだが、集中力を高める工夫(心のコントロールの方法)だとか、内省的になり、自己を知る時間を持つだとか、修養的宗教的な領域に踏み込んでいるのが印象的だ。

 
楽山の時間に、少なくともブログにおいては、有効という利用は皆無だと思います。ことごとく、迷惑でしかありません。楽山は、無責任なので、読書も身勝手な解釈にしかならず、その一点においても、既に、"当たり本" などということは滅びているのです。
 
楽山が、集中すればするほど、コントロールどころか、最小限の節操も失われてゆく1年半でした。潔(いさぎよ)さというものを一切持たない楽山ですから、これからも、いつまでも、腐った人格を剥き出しにしてくるでしょう。
 

この頃は、自己啓発本はあまり読まなくなっていたのだが、やはりこの種の本は、読むと元気が出るのでいい。「よし、もっと頑張ろう」という気持ちになる。

 
自己啓発本を読むと元気が出る、という単純さで、楽山は、命と生き方の問題である宗教をも、笑って、揶揄し、おとしめてきたのです。
 
何よりも、楽山が、いくら集中力を高めたつもりでも、楽山に、内省力も、自己を知る時間も、深まるも、高まるも、ありえないことなのです。そう言って悔いないほどの、自己中、自己愛、無反省、無責任を、今まで表してきただけの楽山だからです。
 

とはいえ、「自分の行動が自分の生活信条と一致していない人生というのは、無意味な人生だ」(p.100)という意見には少々違和感を感じないでもなかった。著者がいうには、盗みをしたことを後悔するとしたら、それは自分の生活信条に反する行為である故であり、もし盗みは「道徳的に立派」だと信じているなら、「刑務所暮らしもまた楽しからずや」となろうし、この考え方からすれば、自分の信条に殉じた「殉教者は皆、幸福な人間ということになる」のだという。

 
楽山は、盗みが悪い、ということを、個人の生活信条だと思っているようです。盗みに喩えて、刑務所暮らしを持ち出し、結局、殉教者の幸福をあざ笑い、命を懸けた行為を、おとしめてくるのです。
 
"自分の信条" といっていますが、殉教が死を意味するかどうかも人類の信仰についての知恵と思考の進歩に期待するしかないような思想の歴史の状況で、なぜか、楽山だけが、浅ましい結論を、気軽に書いて、"幸福な人間"、とか言っています。悪意全開の愚かさに限度のない楽山です。
 
今となっては、この楽山の単細胞に、どうか、付き合わないでくださいというしかないのです。
 

これはこれで一理あるのではあるが、自分の記憶では、司馬遼太郎はこれとは違ったことを書いていたと思う。思想と行動は、本来、一致させることは出来ないものであり、それを一致させようとすれば、「狂」となるより他なく、吉田松陰はそのような人であったとか何とか。

 
思想が、理屈になればなるほど、心は無視され、行動は教条化の結果として極端になり、言葉の干物に従う "狂気" の、凶器の、カルトになってゆくのです。楽山は、その見本です。心がありません。
 

恥ずかしながら、自分は過去に宗教に凝ったことがあり、信仰と行動を一致させることができず悩んだことがあったし、信仰と行動を一致させようとした信者が、幸福とは思えぬ境遇に落ち込んでゆくのを目撃したりもしたこともあったので、司馬遼太郎の意見を読んだときには、思わず膝を打ち、これぞ正論だと思ったのだった。

 
楽山は自分が、無反省、無責任、霊能気取り、評論家気取りで、思いついたまま、好き勝手に、物を言うことが、人を幸福とは思えぬ境遇に落ち込ませてゆくことを知るべきであります。
 
不祥事を、総て人のせいにして、自らは省みず、人のことばかり言い続ける病的な思考の流れだけを、楽山の1年半余りのブログの記事に見ることが出来ます。
 
書くことで、迷惑と害を与えているだけだという自覚もなく、平然としている不感不応の書き方が、楽山の異常性を際立たせているのです。殆どホラーの自己満悦の主張を、今日も提供する楽山です。
 

でも、ベネットはこれとは正反対の意見を持っているらしい。信条と行動が一致しない人生は無意味だとまで言い切っている。

 
楽山は、どう思うのか、まるで、書いていない、書けないのです。そうして、どこまでも、他者の言葉で、他者のせいにして、自らの、まともを装っているのです。腐っています。
 

はてさて、ベネットと司馬遼太郎、どちらの意見が正しいのであろうか…? これは価値観、人生観の話であるから、人それぞれであり、時と場合によりけりであって、万人が同意できる結論を出せるわけもないのだろうが、自分はどうもこの種の問題についてはあれこれ考えないではいられない性質なので困る。どうやら今夜はあーでもない、こーでもないと考えてばかりで寝られないことになりそうだ。とほほ。

 
また、曖昧ボンヤリ楽山に都合の良い、軽薄な、"人それぞれ" を持ち出してきました。困ったときの偽善者の、勝手にさせろ、という決まり文句のようです。
 
今ごろ、いびきを書いて眠っているであろう楽山には、悪い奴ほどよく眠る、という言葉がぴったりでしょう。またしても、トホホ言語が、繰り返せば通用すると思っている楽山の、嫌らしさが全開です。
 
このように、楽山には、責任のもてる自分の意見というものが、全くありません。この破壊された人格は、人間の世界においては、邪魔、妨害、病原としてしか作用しません。存在しない者が、自己主張しても、無責任と無反省が、その都度、否定しています。楽山だけは、気づかないことのようです。
 
 
(2020年10月01日)
 
 
         
                         不感不応の荒れ模様
 
 
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