沖縄市
室川.安慶田エリアから坂道を登り
コザボーリングを過ぎてパークアベニューを横目にさらに進むとゲーセンがあり金融屋の看板を越すと十字路がある
当時まだあった陸橋から通りの向こう側へ
基地の入口へと続く直線には横文字の看板が並んでいた
かつてベトナム戦争当時は沖縄市の経済のほとんどはアメリカ軍基地関係に異存していたらしいということもあり
なにかとアメリカナイズされてきた表側の景色と裏通りの住宅密集地は
まるで生きる化石のように、いまや商材の違う錆びたネオン管と同じ商材の増えた看板の狭間で
この街の戦後が産んだ光と陰を破壊と再生のいまなお脈打つ残骸を
米軍や錆びれた商店街や繁華街やヤクザやホームレスや金融屋や商売人のインド人やビザもってるかわからないフィリピン人ホステスや薬中や普通の人や
メディアが扱うそれと別でただ粛々とあたりまえのように映しだしそして照らしていた
かつて”ROCKの街”といわれた沖縄市にも2000年初頭からのHIPHOPブームの影響もあってか
米軍基地ゲート2通りに軒を連ねているインド人が経営するHIPHOPインポートショップの数々もかつてないほど賑わいだし
まだまだ当時沖縄ではアングラな日本語によるラップシーンではあったがファッションやらなんやら”HIPHOP”が街に溢れ出していった
僕が働いていたショップの社長はインド人ながら沖縄で生まれ育った方だったので本人も若かったし
HIPHOPが好きな方だったので日本における若者のカルチャーや流れに対して理解があった事もあり
もともとアメリカ軍人がメインの商売なのでインド人やハーフや軍人じゃない外人をショップスタッフとして雇っていたショップがほとんどだったが
日本人の客層も増えてきた事によりどのショップよりいちはやく日本人のショップスタッフを雇った方だった
僕は当時 ショップスタッフをする傍ら定期的に買付などバイヤー的な業務もやらせてもらえるようになっていたので
アメリカでも日本でも流行のHIPHOPウェアをどこよりもいちはやく仕入れる事で日本人の客層をより多く取り込みショップは繁盛していた
流行というのはいろんなきっかけから火がつき若者層からより若者層へと広がって行く
もともとHIPHOPが好きな世代からなんとなく流行のファッションを着たい客層、やがて高校生、さらに中学生、イケてるHIPHOPウェアを求めて客層の幅は増えていった
好きな事をして人と関わる仕事をしていると好きな事が同じな人との出会いも増えていく
あるときから
前歯の無いチノパンにタンクトップ(ランニング)にリュック姿のよく笑う10代の少年がショップに遊びに来るようになった
お金はまったく持っていなかったが
とてつもなく日本語ラップに詳しくて
なんならなぜか沖縄のラップシーンにもやたら詳しかった
僕よりぜんぜん詳しかった
GACHIMAF、JAFEM、ヒーガリー、Q-NI、他いろいろラッパーの存在を教えてくれた
ショップ横のペプシの自販機でペプシコーラを買ってあげてショップ前のベンチで日本語ラップについておしゃべりをした
やがてそいつの兄貴だったりそいつの同級生だったり後輩だったりもショップに遊びに来るようになって
いつも誰かしらがショップ前にタムロっているようになった
前歯の無い少年も含めそのうちの何人かはラッパー志望だった
それ以外の何人かはDJでたまにライターもいた
そんなヘッズの集団だった
「俺たちAGCっていうんだー」
AGCの”AG”は沖縄市”安慶田”だった
僕も沖縄市安慶田中学校出身なんで地元の後輩なんだーって思ってそいつらとはすぐ仲良くなった
そいつらの同世代にもラッパーが増えてきていろいろいるよーって話を聞いた
20代前半の僕でも若いほうだと思っていたけれど
知らなかっただけでいろいろラッパーがいるし、
10代のラッパーもいろいろ増えているのかーって僕は驚いた
沖縄のクラブシーン、先輩方が夜な夜なパーティーしLIVEし活動し作ってきたラップシーンとは別に
HIPHOPというムーブメントは確実に
沖縄県内いたる所のストリートの片隅で
沖縄のラップシーンの新しい何かしらの歯車を回し出そうとしていた
前歯の無い少年はMI-2といった
やがてそいつらは
”琉球残留孤児”ってラップCREWになった
くそひどいネーミングだなって思った
2002年〜
ひたすらリュックに詰めた夢と陰謀
ちら出しのゲームされどHIPHOP
悩ましい街で破る均衡
MY MIND 着火しWHAT UP B-BOY
ST‐LOW x MI‐2 / NEXT STREET 2
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EPをリリースしました。
ST-LOW / BACKDROWSINESS
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