大学野球万歳 -2ページ目

大学野球万歳

早稲田大学から2011年に日本ハムファイターズに入団した斎藤佑樹投手をはじめとして、東京六大学野球や東都大、関西学生リーグ、関西六大学野球など、気になる選手のことを色々と。

娘の学校が土曜日、日曜日と熊本と石川の強豪チームとの招待試合があるということで、娘は始発で出発しました。先週は香川県の遠征でこれまた尽誠学園等との試合があった娘の学校。選抜出場高校だけではなく、選出されなかった学校でも球春が訪れ、春季大会に向けて頑張っていますね。


その熊本の強豪校は早稲田のユニフォームそっくりなのですが、なんと監督さんは六大学のライバル校出身。そのことを探していたら、なんと!こんな記事に出会ったのです。流石、手束さん!

熊本で早稲田のユニフォームそっくりと聞くと高校野球ファンならば分かりますよね(笑)


手束仁さんのブログ「ほぼ週刊テヅカジン」より
http://ameblo.jp/justplan/entry-11339406539.html

第一試合の熊本の学校には勝ったと保護者仲間から電話がありました。次の試合は石川と熊本の学校で引き分け。第三試合は松井秀喜の母校に一点差で負けたそうです。

土日が終わって、帰ってきたら泥のようになって眠る娘でした。


今日の午前中に着信のあった相棒からのメールに「!」思わず職場で「えっ!」と声を出してしまいました。

何と選抜の抽選会の結果、初日の第三試合に都立小山台高校と履正社高校が激突するというのです。

昨秋、神宮第二球場にて行われていた小山台高校の試合を応援に行きました。結果は健闘虚しくベスト8。しかし、東京でこの成績は素晴らしいもの。何とか21世紀枠での選出をと多くの方が祈り、その祈りが通じて選出の第一報が入った時の嬉しさは言葉に出来ない位でした。

皆さん、ご存知の方もいらっしゃるかもしれませんが、2006年に起こったシンドラー社のエレベーター事故の犠牲者になった市川大輔(ひろすけ)くんがこの小山台高校の野球部員だったのです。当時、唯一の二年生でのレギュラーだった市川くん。小山台高校では野球部といわず、野球班と呼びますが、その野球班で使用するバッドを買いに行った後、この悲劇ともいえる事故に遭われたのです。その後、小山台のグラウンドに赤トンボが飛んで来るのを度々目にしていた福嶋監督。「大輔か?」と福嶋監督が呼ぶと指に止まったそうです。信じられないと思われるかもしれませんが、グリーフケアやグリーフワークの現場では、亡き方が姿を変えて現れる現象は良く聞かれます。夫を亡くされた方たち遺族の会でも「あら、あなたのところは蝶々なの?うちはバッタよ!」なんていう会話が聴かれると言うのです。市川くんが亡くなった後も、彼が買ってきたバットで打つとヒットが生まれたり、彼が遺した野球ノートの言葉をみんなで大事にしたりと、姿は見えない市川くんの存在が精神的支柱にもなっている様子に感動したことを覚えています。

詳しい記事は以下の日刊スポーツのWebページをご覧ください!

 第86回選抜高校野球大会の21世紀枠に(3月21日開幕)東京の小山台が都立校として初めて出場を決めた。2006年にエレベーター事故で亡くなった当時の野球部員、市川大輔(ひろすけ)さん(享年16)の恩師である福嶋正信監督(58)は、市川さんへの思いを語った。

 記者会見に向かう前、小山台の福嶋監督は右ポケットに写真をしまった。「大輔、一緒に甲子園1に行けるぞ」。06年にエレベーター事故で亡くなった市川大輔さん(当時2年)の写真はいつも監督と一緒、眠る時も枕元に置かれている。亡くなった当時、2年生でただ1人レギュラーだった市川さんの願いがついに、かなった。

 教員室の机の上には、07年東東京大会3回戦(対墨田工)のスコアボードの写真が飾られている。5点を追う最終回に6点取り、8-7で大逆転を演じた。奇跡の勝利は、事故直前に大輔さんが購入した金属バットが呼び起こした。

 福嶋監督 5点目、6点目は大輔のバットだった。バッターは普通に自分のバットを持って打席に向かおうとしていたんだが、慌てて止めに行って大輔のものに替えさせたんだ。

 「赤とんぼ」が市川さんの象徴だ。事故直後の11月の練習試合で、監督の左膝に赤とんぼが止まった。全く飛び立とうとしないそのとんぼに「大輔か?」と問いかけると、指に止まった。それからことあるごとに赤とんぼは小山台を訪れ、いつしかシンボルになった。

 新入部員が入部する時は必ず、市川さんが書き残した野球日誌のコピーを渡す。「大輔を何としても甲子園に連れて行きたいと思ってここまでやってきた。近いうちに報告しに行くよ」。少し涙ぐみながら、監督はほほ笑んだ。【和田美保】

<市川大輔さんの母正子さんのコメント>

 甲子園 が決まったと知った瞬間、実感が湧きませんでした。仏壇の前で「やったね。本当にうれしいね。思いは実現するんだね」と声を掛けました。息子も泣いていたと思います。私も涙が出ました。たくさんの方から電話があり、皆さん電話口で泣いていました。8年前、レギュラーをいただいた大輔は毎日、朝練に行ってました。(生前)大輔が野球日誌に書いた「1日を大切に」という言葉は家でもよく言っていました。8年近い時間の中、福嶋監督、そして先輩から後輩へ甲子園への思いをつないでくださって感謝です。

 ◆エレベーター事故 06年6月3日、東京都港区のマンション12階で、同階に住む市川大輔さんがエレベーターを降りようとしたところ、突然上昇。約1時間後に救出されたが、頭の骨を折るなどして死亡した。シンドラー社製のエレベーターは97年に製造。同社を相手取り、遺族が起こした裁判は昨年3月に初公判が開かれた。事故発生から約6年9カ月を経て、刑事責任の審理がようやく始まった。被告は無罪を主張。裁判は長期化が予想される。

 [2014年1月25日9時47分 紙面から]



実は昨日、小山台高校野球班の福嶋監督、大谷責任教師のお二人を囲む会を相棒が開催しましたので、ご一緒させてもらいました。





会の最後に皆さんへの挨拶をされている福嶋監督。善教寺結城思聞住職の発案により、監督、部長先生、そして同校OGの姫路善教寺の坊守であられる亮子さんが校歌を唄って下さいました。素晴らしい歌声に一同感激致しました。

歌詞が本当に素晴らしいのでご紹介します。

都立小山台高校 校歌
栗原 源七 作詞 / 平井 康三郎 作曲  


1. 富士見はるかす 窓晴れて、銀杏のみどり濃きところ
語らいつどう若人の こころの琴にひびきあり
敬愛の花ここに咲く“小山台”
おおここぞ平和のはなぞの


2. 象る菊の 香も清く純情燃ゆる青春の
我等に自主の意気高く自由の翼明日を待ち
明るき誇りここに満つ“小山台”
おおここぞ文化のみなもと
 
 
3.朝雲流れ 中空に 八角塔のそそり立つ
揺がぬ力礎に たかき理想へ進むとき
希望の光ここにさす“小山台”
おお ここぞ精神のふるさと


また、会の最後には、抽選会のアナウンサーを務められる森本さんから、キャプテントークや予備抽選の様子などを聞かせて頂いたり、西浦達雄さんによる「栄冠は君に輝く」の斉唱があったりと、球春が来たことを実感する会となりました。



ABC朝日放送全国高校野球中継エンディングテーマを25年間歌い続けていらっしゃる歌手の西浦達雄さんのHPは以下の通りです。
http://www.nishiura.cc/

また、森本栄浩アナウンサーのブログも情報の宝庫です!キャプテントークの詳細がご覧になれます。
http://www.mbs.jp/announcer/blog/16/




自分たちがやってきたことをただひたすらに信じて、開会式の日に行われる第三試合に臨んで欲しいですね。健闘を祈っています。
2009年2月11日に急逝した山内政治の遺稿が自費出版されて早くも4回目の春が巡って来ます。

早稲田大学関係者の方のお力で、自費出版により第三版が出されてしばらくの時が流れました。

その後、藤井利香さんによる『幻のバイブル』の思いもかけない刊行があり、多くの方々に山内政治の生き方や野球観が拡がることになりました。

また、不肖の娘が彼の母校である彦根東高校の野球部のマネージャーになり、本当にその深い縁を感じずにはいられません。

お浄土でどんな思いでそれらを見ているのだろうか、と毎年の祥月命日にはお墓参りをして、彼との叶わぬ対話を重ねています。


今年のお墓参りでは、政治さんの遺稿が早稲田大学出版部から出されることになったことを報告致しました。

今回も姫路の善教寺結城思聞住職の強力なリーダーシップの下、沢山の方々のご協力を頂き、刊行の準備が進んでいます。

収益は早稲田大学安部磯雄先生の奨学金に全て寄付されます。是非とも沢山の高校生が早稲田大学の野球部に憧れ、えんじ色のユニフォームに身を包むために、安部先生の奨学金を使って、野球部に入部してくれたらと思っています。

先日、出版社と話し合いが行われて、早稲田大学の野球部の先輩・後輩でプロ野球で活躍された方、同期のキャプテン、後輩で山内と親しくしていた高校野球の指導者などから山内と定石をめぐるコラムなどを書いて頂くことになりました。
本当に田舎の高校野球の一指導者には余りにも素晴らしい方々からのお言葉を頂くことになり、恐縮の極みです。

また、途中経過などをお知らせ出来たらと思います。
球春も近いですね。待ち遠しい気持ちでいっぱいです。
神宮大会の決勝での「東都」対「東京六大学」何度かの対戦が過去もあったが、今年の第44回大会もこのカードである。亜細亜大学対明治大学。

どのような試合となるのであろうか。準決勝ではそれぞれ、ある程度の力の差を見せつけての決勝進出。

前にこの「東都」対「東京六大学」があったのかを記憶から辿ると・・・・2007年のあの年です。
そう、2007年の早稲田大学と東洋大学。大場くん擁する東洋大学と斎藤くんのルーキーイヤーでの対決は手に汗を握るものでした。あの時、負けはしたものの、斎藤くんのピッチングは素晴らしかったです。斎藤くんの連続三振のあのボールは今でも軌道を覚えているくらいです。途中まで0対0の拮抗した試合でしたが、斎藤くんが降板してから、2点を奪い取った東洋大学が2対0で優勝した試合でした。

http://www.youtube.com/watch?v=AnySjv1T9aU


動画の掲示板では、懐かしい早稲田の面々が見られます。細山田くん、松下くん、須田くん、上本くん。あ~一番この頃が懐かしいですね。

さて、明日の決勝。今年はどちらの勝利で終わるのでしょうか。東京六大学の覇者として、明治大学に是非とも頑張ってほしいものですね。

今日公開になった石田雄太さんのスポルティーバの文章。


http://zasshi.news.yahoo.co.jp/article?a=20131113-00000303-sportiva-base

頷きながら読ませていただきました。


きっと、肩を壊したあとは本当に怖かっただろうな、、とか、このまま終わってしまうのではないかな、とか、、、沢山のマイナスの報道などもありましたね。

が、この記事を読んで、、、なんでしょう、少しすっきりとしたものを感じています。
彼は彼で成長しているのです。それは野球の技術、というものでもなく、人として。
だから、やっぱり、陰ながらしっかり応援しようと思う。

先日、早慶戦に行ってきました。16番、10番、1番の背番号を不思議な気持ちで眺めました。そして、50番も。

プロ入り後、時間が過ぎ行くなかで、不思議なこと、なるほど、と思うこと、心が折れそうになること、嬉しいこと、きっといろいろあったでしょう。


私も斎藤くんと逢ったことで、神宮の杜に戻ってくるようになり、再会を果たしたり、新しい出会いがあったり、そんな中の延長上に今の生活があります。

すべてが斎藤くんが取り持ってくれた縁。

そのことに感謝して、やっぱり彼の彼なりの成長を祈り、喜びたいと思います。

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リンクが上手に貼れませんでしたので、全文掲載させていただきます。


斎藤佑樹の覚悟「何が待っていたとしても、それも僕の人生」

webスポルティーバ 11月13日(水)12時18分配信



 最強の24歳になります――。

 斎藤佑樹が札幌ドームのお立ち台の上でそう言ったのは、去年の6月6日。斎藤、24歳の誕生日のことだった。

画像つきの記事はこちら>

 しかし皮肉なことに、“最強の24歳”になったのは田中将大だった。去年の11月1日、24歳になってからの1年間、田中は24連勝をマークし、一度も負けることはなかった。まさに最強の24歳である。

 2006年の夏、その田中に投げ勝って甲子園で“最強の18歳”となったのは斎藤だった。しかし、最強の24歳にはなれなかった。24歳の最初の日に勝って以来、彼に公式戦での白星はついていない。

 田中の存在について改めて問われた斎藤は、こう答えた。

「マー君のことを訊かれたら、『すごいな』『これでメジャーに行くのかな』とか、みなさんと同じようなことしか答えられません。高校の時のこととか、ライバル云々とか、そういうコメントはしないと思います。それは、いつか追いついて、追い越したいと思っているからです。勝負は今だけじゃないんだって、心のどこかで思ってます。24歳、25歳の現時点では、ピッチャーとしてマー君の方が上です。でも、30歳になったら、40歳になったらどうかということは誰にもわかりませんし、そのための大学4年間だったと思っています。そこには僕、けっこう自信を持ってるんです」

 斎藤佑樹のプロ3年目のシーズンが終わった。

 一軍での登板は1試合。10月2日の札幌ドーム、オリックス戦での4イニングスのみ。その試合で斎藤は負け投手となって、プロ3年目、0勝1敗、防御率13.50という数字が残った。

 それは、二軍で結果を残しての昇格ではなかった。二軍で残してきた数字は1勝3敗、防御率8.61。しかも、その約二週間前、二軍の試合で先発して3回を投げ切ることができず、9失点でノックアウトを喰らっている。それでも斎藤は、一軍のゲームで先発した。

 試合後、斎藤に「一軍で投げたことが栄養になったのか」と訊いた。すると、彼は「投げてみてマイナスになることは一つもなかった、恐怖感もなかった、これから投げたくなくなるなんていうこともなかった」と、立て板に水の如く答えている。ということは斎藤は投げる前に、投げてマイナスになるのかもしれない、恐怖を感じるのかもしれない、投げたくなくなってしまうのかもしれないと心配していたのだろうか。

「……うん、心配、してましたね。心配してました。だって、やっぱり投げたくないという気持ちもありましたし、100人が100人、投げるべきだという状況でもなかった。投げて打たれて、ここまでやってきたことを信じられなくなるのも怖かったし……でも、そんな中で栗山監督が『投げてみて』と言ってくれました。あの日のマウンドはそういう場所だったので、そこには何か、僕が進むべき方向を見出せる、意味深いものがあるんじゃないかと思ったんです。もしかして、投げたら何かスイッチが入るかもしれないという兆しも感じていましたし、いずれは通らなければならない道ですから、それなら通ってみようと……どんなことが待ち受けていたとしても、それも僕の人生ですから」

 覚悟を決めて投げた、78球──。

 バファローズ打線を相手に、シングルヒットを5本浴び、四死球を6個与え、失点は6。

 あの日の一軍のマウンドには、何があったのだろう。

「それが、何もないんです。何もなかった……あらかじめ準備をしていったから、何事もなく済んだのかもしれません。信念を強く持って、何があっても今までやってきたことの延長線上だから、たとえ悪くても、どれだけボコボコに打たれても、何も変えないようにしようと心に決めて登板したんです。その結果、良くも悪くもなかった。投げてみてダメージが残ったわけでもないし、すごくいい感触が残ったわけでもない。今、思えば、何もなかったことが、とてもプラスだったんじゃないかと思います」

 斎藤はあの日に投げたボールをほとんど覚えていない。

「初球……何を投げましたっけ。インコースですか? ストライク? いや、全然思い出せないんですよ。あの試合、ほとんど記憶になくて、なぜだろう、何も覚えてないな。あの日、何を着ていたかな。けっこう、着ていた服は覚えてるんですけど、どんな服を着ていたかも思い出せない。ああ、試合が終わってから武田勝さんに誘っていただいて、食事をしました。それは覚えてます。『無事に投げられてよかったね』と言って頂いて、一緒に鉄板焼きを食べました(笑)」

 何事もない、平穏無事な一日。

 おそらくは、そういう日になることを祈っていたからこそ、細かいことを記憶に留めたくなかったのかもしれない。避けて通れない一日を終えたこの日の帰り際、10月に宮崎で行なわれる若手中心のフェニックス・リーグに向けて課題を問うと、斎藤はこう言って笑った。

「宮崎では、“脱力”がテーマですね」

 2013年10月17日。

 まばゆい陽射しが照りつける、台風一過の宮崎。斎藤はこの日、みやざきフェニックス・リーグの韓国・ハンファ戦に先発していた。

 ヨシッ。

 一球ごとに、斎藤の声が聞こえる。ボールをリリースした瞬間、腹からの声が響く。

「そんなに出てます? 僕、声はそんなに意識してないんですけど……おそらく、いい感じでボールが指にかかったときに、『ヨシッ』って声が出てるんだと思います(苦笑)」

 体のどこかに特別な力を入れることなく、それでいてボールに最大の力を伝えることができるフォームの模索が、この秋の斎藤の狙いだった。

「けっこういい感じできてると思うんですけど……2月から始まって、6月に投げ始めて、ずっと腕が振れない、振れないと思っていたんです。でもここにきて、この1、2カ月前からかな。ようやく腕が振れてきてるなという感覚があるんですよね。ビデオを見ても、だいぶ腕は振り切れていると思うんです。ただ、黒木(知宏、投手コーチ)さん、中嶋(聡、バッテリーコーチ)さん、中垣(征一郎、トレーニングコーチ)さん、周りのみんなは、まだ腕が振れてない、振り切れてないという感覚があるらしくて、そこはまだ一致してません。それが、去年の日本シリーズの頃の僕と比べて振れてないという話なのか、それとも一般的に理想のフォームを求めるならもっと振れるはずだという話なのか、そこがまだ自分の中でつかめないんですよね」

 肩、ヒジを痛めたピッチャーは、どこかで怖さを吹っ切って腕を振る勇気が求められる。しかしどれだけ勇気を振り絞っても、意識下で体がブレーキをかけてしまうと、腕は振れない。しかも本人は腕を振っているつもりでも、ビデオで見るとやはり振れていないというケースは珍しくない。

 そんなギャップが焦りを呼び、腕を振ろうと意識してしまえば元の木阿弥だ。なぜなら、腕を振ろうとして振ってしまうから、肩、ヒジに負担が掛かるのであって、腕を振ろうという意識を持たず、全身の力をバランスよく使って、腕が振れなければならない。これがじつにもどかしい作業なのだ。斎藤は言う。

「腕が振れはじめたなと思った頃から、いろんなリズムで投げてみました。グローブの位置は下げた方がいいのか、上げた方がいいのかとか、右ヒザは曲げた方がいいのか、曲げるとしてもどう曲げるべきなのか……フォームを試行錯誤しているうちに、いろんなことをやり過ぎてしまったんです。だから今は、同じフォームで投げることを意識しています。そのフォームを体に覚えさせたい。その結果、腕を振ろうとしていないのに138キロが142キロになれば、腕が振れているということになる。怖いのは、スピードを求めて、腕を振ろうとして、力感を求めてしまうことです。バチーンと投げたら、力感はあるんですけど、バッターの反応もイマイチだったり、スピードガンの数字も意外に出ない。スライダーにしても、ピュッと軽く投げた方がバッターがクルンって振ってくれたり、詰まったりするんです。だから、リリースの力感を求めてはいけない。ホームランを打てたときって、手応えがない、バットが抜ける感覚があるんですけど、ああいう感じだと思います。要は、体がしっかり動いてくれれば、力感なく腕を振り抜けると思うんです。頑張ってる感を出してしまうと、ダメなんです」

 しかし、力を抜くのは思うより難しい。斎藤はこの秋、フェニックス・リーグで3試合に登板した。

 10月10日のオリックス戦は6回途中まで投げて、被安打10、失点11。
 10月17日の韓国・ハンファ戦は6回を投げて、被安打6、失点3。
 10月26日の広島戦は5回を投げて、被安打10、失点4。

 いいリズムで投げていたかと思えば、突如、乱れる。ホームランを打たれた後に連打を浴びたり、エラーやフォアボールでランナーを溜めると歯止めが利かなくなる。それは、斎藤の持ち味である駆け引きや粘り、微妙なタイミングのズレを呼び起こす段階には至っていないからだろう。

 力を入れずに投げたら、強いボールは投げられない。

 だから、つい力を入れて投げてしまう。

 でも、力が入るとフォームがブレるし、肩に負担もかかる。

「6割くらいの力の入れ具合から入って、7割、8割くらいで投げられているうちはいいんですけど、これが9割までいってから打たれると、カッとなって10割になっちゃう。力が入り過ぎちゃうんです。その瞬間、制御が効かなくなってしまう。いったん力が入ると、もう一度、力を抜いて投げられなくなるんですよ。10割から、6、7割には戻せなくなってしまうんです。そこのところも含めて、脱力はホント、難しいと改めて感じています」

 それでも斎藤は、取り組んできたことを信じて前を向く。

 力を入れなくても、力感を求めなくても、このフォームで投げ続ければスピードもどんどん上がっていくと信じている。

「去年の日本シリーズで147キロを投げたんですけど、あれで肩を痛めてしまいました。だからこそ、力を抜いて、肩に負担の掛からないフォームでも、同じ147キロを投げたいんです。同じフォームで投げていたら、そのうち肩のストッパーも外れて、スピードが出てくるんじゃないかと思っているんです。やっぱり、真ん中に行ってもバッターが詰まるとか、まっすぐとわかってるカウントなのにバッターが差し込まれるとか、そういうボールを投げないと……そこは捨てきれないんですよね。そういうピッチングをイメージすると、ワクワクしてきます(笑)」

 最強の24歳にはなれなかった。

 しか