三菱財閥創始者の岩崎弥太郎氏が四国の土佐藩出身だったため、三菱グループの「スリーダイヤモンド」の社章は土佐藩山内家の家紋「三つ葉柏」に由来している。このように四国とのゆかりは深い。だから、というわけではないだろうが、三菱重工には香川大学のOBがそこそこいる。旧財閥系メーカーの重役と言えば旧帝大の理系卒が当たり前だった昭和50年代後半、かつて帝国海軍の主力戦闘機「ゼロ戦」や戦艦「武蔵」を作った名門企業だけあって、ズラリと東大工学部の出身者が並んだ役員陣に、ただひとりだけ高松高商卒の文系取締役がいたのも三菱重工である。

蓮井さんは筆者とは直接の面識はないが、香川大学経済学部の1年先輩にあたる。香川大卒業以来、四国での勤務ははじめてになるそうだが、こういう帰郷は理想的だろう。香川大の「共通一次世代」も、なかなか頑張っているわけである。

 

 

ビジネス香川 2016年バックナンバーより

 


 

 

高松市出身で、大学卒業まで地元で過ごした。「地元と言っても知らないことがたくさんあるなと感じています」。四国での勤務は今回が初めてだ。昨年、赴任後すぐに高知県安芸市にある三菱グループ創業者・岩崎弥太郎の生家を初めて訪ねた。「自分の仕事を見守られているような感覚になりましたね」

 

開発から営業へ

大学時代はコンピューターサークルに所属し、プログラミングを学んだ。予備校でのアルバイトでは、試験の採点プログラムや点数の集計プログラムの作成を手伝った。

三菱重工に入社後、兵庫県にある高砂製作所のシステム課に配属された。どうすれば資材業務をより効率化できるか、資材部門と議論しプログラマーと共にシステムを作り上げる役割だった。「自分が携わったものが実際に動き始めると、うれしいし面白かったですね」

だがシステム部門から離れ、次は営業畑を歩むことに。最初は戸惑いも多かった。工場の窓口のような役割を任され、顧客の要望に応える設備が造れるのか、設備のメンテナンスをいつどのような内容で行うのかを現場と相談した。「要求されるものがあってそれに応える。どんな仕事も基本は同じですよね」

これまでの仕事の中で印象に残っているのは、何といっても海外勤務だ。ワシントンD.C.での米国三菱原子力会社の立ち上げに携わった。銀行口座を開設して、事務所を借りて、携帯電話を契約して・・・というところからのスタートだった。

海外業務の経験が全くない上に、英会話は勉強していたものの、現地で暮らすとなれば言葉の面でも苦労した。「文化も、仕事に対する考え方も、日本とは全然違うと感じました。頑張っているだけではダメで、成果を上げないと評価されない。そういう厳しさは勉強になりましたね」

機会を逃さずに挑戦すること。それが自分の経験から部下に伝えたいことだ。「何かに挑戦する機会があったら、自信などなくてもやった方がいい。つらいことも含めて将来の自分の糧になると思います」

火力・原子力・風力などの発電所を、建設からアフターサービスまで提供するのも三菱重工の事業の一つ。「四国支社長としては、四国の電力の安定・安価な供給に貢献したい」

 

テニスに水遊び

子どもが小学生の時、週末に小学校のグラウンドが開放される日は、20人ほどにテニスを教えた。「授業参観が楽しくて。もちろん自分の子どもも見るんですけど、テニスを教えている子たちの教室にも行きました。自分の子どもが増えたみたいでしたね」。今は週に一度のスクールの他、同級生や家族・知人とテニスを楽しむ。

テニスを始めた大学時代には、アルバイト先の先輩に誘われてウィンドサーフィンもしていた。「アルバイトで貯めた小遣いでボードを買い、津田によく行っていました。今年の5月に四万十川へ行った時、やっぱり水遊びが好きなんだと再認識しました」。夏にシーカヤックやラフティング、キャニオニングをすることも楽しみになった。

妻と里山歩きにもよく出掛ける。地図を買い、登った山に印を付けている。散策ついでに地元の名物を見つけるのも面白い。「善通寺のカタパンなど珍しいお菓子が好きです。人に紹介すると喜ばれますしね。香川は日本酒もおいしくて、それが意外で驚きました。何より、妻が一緒なので楽しいのかもしれませんね」

 

蓮井 靖信(はすい やすのぶ)

1963年3月 高松市生まれ
1985年3月 香川大学経済学部 卒業
1985年4月 三菱重工業株式会社 入社
2005年6月 同社原子力部 軽水炉二課長
2006年6月 米国三菱原子力会社 部長
2012年7月 三菱原子燃料株式会社 経営管理部長
2015年4月 三菱重工業株式会社 四国支社長