香川大学解体新書

このブログは、タイトルのとおり、四国地方にある国立大学、香川大学に関する解説ブログです。

作成にあたっては客観的データを重視し、執筆者の主観はできるだけ入れないように気をつけましたが、閲覧にあたってはそれぞれご自身で判断を願います。


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熊本の皆さんの避難生活も二週間目に突入している。先日は、水前寺公園の湧水が地震の影響で涸れ、様相が一変していた写真をニュースで見た。象潟の故事を思い出してしまった。自然の暴力の前では、人間はなんと無力であることか。


さて、「温故知新」と題して、日本の大学の歴史について、資料にもとづいていくつかご紹介している。初回は、東京教育大学の筑波移転に伴う伝統の断絶について取り上げた。

の二回目として、今度は関西の「公立大学の雄」である、大阪市立大学を取り上げてみよう。



大阪商大
大阪市立大


大阪市立大学は、地元では「おおかか・いちりつ・だいがく」と発音する。前身である大阪市立の大阪商科大学は、戦前学者市長として有名だった元東商大(現・一橋大)教授の関一(せき・はじめ)大阪市長が旧市立大阪高商を昇格させて作った旧制公立大学である。

関一は交通論の学者で、陸軍が占拠していた大阪城に、今ある鉄筋の天守閣を市民の募金で復興したり、百年先を見通して、周囲の反対を押し切り御堂筋を開通させ同時に市営地下鉄御堂筋線を走らせたことでも有名である。当時、「飛行機でも発着させるのか」と酷評された6車線の広い道路は、高度経済成長期にはそれでも足りなくなり一方通行化して別に「新御堂」を抜くなど、市内の交通の大動脈として機能している。

その関市長が、大阪市の南の端、大和川沿いに広大な敷地を確保し、「国立大学のコピーであってはならない」「ゆくゆくは総合大学に」という構想のもと誕生させたのが市立大阪商科大学である。



大阪市立大学
大阪市立大 杉本町キャンパス



文部省の予算制約のせいでライバルの官立神戸商業大学は付属専門部や予科をもたず、キャンパスは4年制だった高商時代と同じ「葺合村塾」(ふきあい・そんじゅく)と言われた明治以来の木造二階建て校舎に定員も3年制の本科だけという超貧乏予算で発足した。

これに対して大阪商科大学は、設置母体である大阪市の「商都」の意地の産物(神戸商業大学の前身の旧官立神戸高商は、大阪市と神戸市の熾烈な誘致合戦の末に貿易港の神戸に設置された)だったためか、大阪商科大学は市から潤沢な予算があてがわれ、国立の東京商科大学キャンパスにならって大阪市郊外の杉本町に広大な新キャンパスと本科、予科、商業専門部といった鉄筋の新校舎が作られた。その広さは、公立大学最大の総合大学となった今日でもまったく狭さを感じさせない。当時「東洋のマンチェスター」と謳われ、人口では東京を抑えて日本一を誇り、「大大阪」(だいおうさか)と呼ばれていた大阪市の経済力を物語っている。


さて、大阪商科大学と言うと、戦時中、官立の高商や商大がすべて軍部の圧力に屈して校名を次々と経済専門学校や産業大学、経済大学等に変更した中、最後まで「商科大学」の看板を守り抜いて、逆に「商大事件」といった思想弾圧事件を引き起こしたたことでも知られている。

そこで、筆者などは、戦後大阪市立大学となったこの学校が戦前からの伝統を濃厚に引き継いでいるという印象を持ってた。設置母体は同じ大阪市であるし、校章も寮歌も戦前のものを引き継いでおり、1学部200名未満という定員は医学部なみの規模であり、理想的な環境ではないか、と。

しかし、大阪市立大の戦後の大学史をひもとくと、どうもそういうことではないらしい。むしろ、戦後の米軍によるキャンパスの接収よりも前に、この白い巨塔の中で、思想対立によって他の大学よりも激しい戦前と戦後の断絶が見られたようである。

以下は、大阪市立大OBで同校の大島真理夫教授が大阪市立大学の同窓会「有恒会」の会報に寄せた文章である。これを読んで、地元大阪府民の、戦後の市立大へ対する「微妙」な視線の理由がようやく氷解した。



(「有恒」200号より引用)


大阪商大と大阪市大の連続と断絶


(大阪市立大学経済学研究科教授 大島真理夫)


私は1969年に(筆者注;大阪市立大学)経済学部に入学した世代であるが、学生時代。折に触れて聞かされる「大阪市立大学の文系諸学部は旧制大阪商科大学を前身校にしている」ということが、どうも実感できなかった。2005年度から2012年度まで8年間大学史資料室長を務めるなかで、その理由の一部が分かったたような気がしている。

大学の(旧制と新制の)制度的な断絶、10年以上に及ぶ学者接収という物理的な断絶と荒廃の影響も大きいが、私が驚き、ショックも受けたのは、大阪商科大学時代において、敗戦直後の1946年に、大学の目的、カリキュラム、教員養構成を根本的に変更するような大改革が行われていたことである。

1945~46年、少なからぬ大学で、治安維持法違反などで拘束・服役・辞職していた教員や学生の復職・復学などをきっかけとして、(戦時中の)残留組教授の戦争協力責任という問題が大きくなり、大阪商大では、教授全員が辞表を提出し学長にその処理を任せることで、けじめをつけるということが行われた。その結果、1946年2月に教授であった27名のうち、辞表受理ないし自発的退職によって、なんと16名の教授が大学を去り、残ったのは11名に過ぎなかった。

これだけ大量の辞職と少数の残留とを分けるラインが戦争協力の有無にあったとは思えない。(筆者注;他大学では軍国主義教育を主導したとして責任を追及された教授の数は桁違いに少ない)

同時に、(市立大阪商科)大学の学則第一条(目的)が「商業に関する学術」から「政治経済に関する学術」に変更され、カリキュラムも必修科目はゼロですべて選択の超自由主義型となった。残留組は、法律系、経済系に多く、経営、金融、貿易、市政という、商科大学初期の四分科にかかわる教授たちが辞職となっていることが印象的である。

この点について、最近、林純平『関西学会展望』(交友堂書店、1938年)という本を読み、ある種の感慨を覚えた。この本は、当時の『夕刊大阪新聞』に掲載された関西の大学と学者の紹介を単行本にしたものであるが、京都帝国大学、神戸商業大学に続いて大阪商科大学も取り上げられており、そこで高い評価の教授と低い評価の教授が、完全ではないが、1946年の残留組と辞職組につながっているのである。

大阪市立大学において大阪商科大学の雰囲気が感じられなかったのは、このような教員構成の断絶(筆者注;商業系・実務系科目担当教員の追放)と(それによる)大学の性格変化という要因も大きかったのではないかと考えている。

(後略)




(大阪市立大学史 紀要より引用)


新制大阪市立大学の成立


(大阪市立大学経済学研究科教授 大島真理夫)


>必修科目がなくなっていることに驚かされる。第 1 種科目も必修ではなく、第 2 種科目とあわせて、20 単位以上を取得すること求められただけである。

ただし、必修ではないとしながらも、提供科目数は 27 科目に過ぎないのであるから、20 単位(1 2 時間で 1 単位なので、通常は 1 科目= 1 単位)を集めるためには、あまり選択の余地はなさそうである。しかも、これらの科目が毎年開講されたわけではなかった(次掲の「回答」参照)。科目の内容を見ると、4 分科制時代に設置された「商業」系、「実務系」の科目のほとんどが消滅している。

学則の「目的」が商業から政治経済に変わったことと対応し、後述する、商業系・実務系科目担当教員の追放とも連動している。

>本稿の見地から注目されるのは、「商科大学ニ於テモ単ニ完結セル商業的職業教育ノミヲ制度的ニ学生ニ押シツケルガ如キ方針ハ避クベキデアルト考ヘラレル」という部分である。

これは、具体的に指示されているわけではないが、当然ながら、大阪商科大学のこれまでのカリキュラムを念頭に置いて、それを根本的に改めるということを明記していると読むべきであろう。

学則第 1 条の「目的」という根本的な規程において、大学の教育研究の目的が「商業に関する学術」から、「政治経済に関する学術」に変わったこと、および超自由主義的なカリキュラムの採用は、きわめて意識的な改革であったといえるであろう。回答には、「今後ノ日本ガ特ニ要求スル所謂視野ノ廣イ教養人ヲ作ルコトヲ目標トスベキ」という文言もある。

「職業人」ではなく、「教養人」の方に重点が置かれたのである。そうした方向性が、「教育ノ民主主義化」という点から、推し進められている。前述のように、ここで槍玉に上げられた「商業的職業教育」は、すでに戦争の激化とともに否定されていったのであり、戦中から戦後にかけて、一方は戦争の遂行、他方は戦争への反省というように、立場は正反対であるが、「商業の否定」という点では、一致していたのである。


大島教授は、上記の論文のなかで、戦後の大量辞職により市立大阪商科大学の商学・経営学系の教授の殆どが「追放」され、残った教授陣の殆どは政治・経済学系の教授であったことから、「看板は『大阪商科大学』のままであったが、実質は『大阪市立政治経済大学』に変質してしまっていたことを指摘している。

もともと、政治・経済学にはイデオロギーのにおいが強い。そして、そこで教える先生は、戦時中軍部に迫害され、終戦後に復権した左派の教授陣である。そして、拠るべき杉本町のキャンパスは10年間にわたり進駐軍に強制的に接収され、米軍の基地になっている。ここにおいて大阪市立大学の性格は、かつての「大阪商科大学」のそれから、大きく左に大きく傾斜したというわけである。

下のリンクは、同じく大島教授が編集した、大阪商大出身で関西学院大学学長をつとめた久保芳和先生の回想録の資料である。


《資料》

大阪市立大学史 紀要より


久保芳和回想録

http://dlisv03.media.osaka-cu.ac.jp/infolib/user_contents/kiyo/DBq0010002.pdf#search="%E4%B9%85%E4%BF%9D%E8%8A%B3%E5%92%8C%E5%9B%9E%E6%83%B3%E9%8C%B2 ")


筆者は、たまたま久保芳和先生をリアルタイムで知っている。

久保先生は、戦前の市立大阪商科大学に学び、その後大阪市立大学の助手から関西学院大学の助教授に転じ、のち関学の学長になった方である。専門は経済学説史。

戦時下の思想弾圧の反動として、戦後、大阪市立大学が「進歩的」な教授陣に牛耳られるようになると、母校市立大に嫌気がさしてかつての恩師を頼って関西学院大学に転じている。


最近、受験界では関西学院大学がふるわないとよく聞く。

しかし、戦後から大学紛争が激しくなる昭和40年代までの関西学院大学の社会科学系学部は間違いなく輝いていた。いま関西財界で関学OBの数が多いのは知られているが、その要因のひとつは、戦後の大阪商科大学に蔓延していた「進歩的」雰囲気に耐えられずスピンアウトした優秀な教授を迎え入れたことによるだろう。

関学は、原田の森時代、もともと同じ神戸市葺合にあった神戸商業大学(当時は官立神戸高商)とはライバル関係にあったため仲が悪く、旧制の商系学部の教授供給源を、京都帝国大学と大阪商科大学に求めていた。

筆者の個人的交友範囲でも、筆者の実家の隣りに住んでいた保険論の椎名幾三郎博士は、東商大(現・一橋大)を出て小樽高商教授を経て大阪商科大学の教授となった方だが、この「大量辞職」により、関西学院大に新設された商学部に迎えられ、昭和42年まで教授をつとめた。

旧帝大の京都大学や新設された大阪大学は「経済学部」であり、商学・経営系に割り当てられた教授定員はもともと少ない。神戸大学は商大であったため講座数は豊富にあったが、すでに自前の教官供給能力を備えており、「避難先」にはなりえなかった。

その点、関西学院大学は、高商や戦前の商経学部時代から大阪商大より教授を受け入れていたという背景があり、経済学部と新設された商学部がこの大量辞職者の受け皿のひとつになったものと思われる。つまり、皮肉にも市立大阪高商の商学の学統は、関西学院に「接ぎ木」されたことになる。

いっぽう、大学紛争の残り火がくすぶる昭和50年代まで、いわゆる関関同立の4校のうち夜間部を持たないのは関西学院だけであった。

筆者は、上記大阪商大からの教授受け入れとあわせたこのふたつの要因が、当時の関学の実業界での評価を高める大きな要因になったと想像している。


久保先生は、「久保は仕事はしているが思想傾向が悪い」という大阪市立大教授会での極左教授陣の意見により、新制大学への切り替えで他の助手がみな助教授に昇格したなかで、ただひとり助手のまま留め置かれたという。恩師の堀経夫教授は上記の「集団辞職」の対象にはならなかったものの、関西学院に転出(のち関西学院大学経済学部長、学長)し、そのあと主任教授となったO教授が、シベリア抑留時代に思想教育を受けたコテコテの左派で、折り合いはよくなかったためらしい。

正当な理由なく免職にはできないので、助手のまま飼い殺しにして自発的退職を促すという陰険な手法である。小説「白い巨塔」の浪速大学医学部ではないが、当時の大学で主任教授ににらまれて学内に生きる道はなかった。とくに、「大量退職」のあと教授の数が激減したということは、大量の新米助教授、講師の補充を意味し、堀教授が去って10名にまで減った旧大阪商科大学時代からの古参教授たちの学内での権威は突出したものになった。法、経、商三学部で10名ということは、古参教授は各学部とも数名ということになる。それが各教授会での決定権者となった。

失意の彼は、先に関西学院教授となった恩師の堀先生が誘い、関学の助教授に迎えられることになった。同じような経験をした学者がこの時期多かったであろう。したがって、久保先生はのちに経済学博士となるが、この博士号は関西学院から授与された博士号であって、母校大阪市立大学の博士号ではなかった。

このように、戦後の大阪市立大では、「進歩的」な風潮が学内を覆っていたのである。

上の資料では、後年著名な公認会計士となったあるOBが、学生時代に当時会計学の大家とされたゼミの教授に、「将来は公認会計士を目指します」という志望を話したところ、「君は資本家の手先になるつもりか」と非常に不快な顔をされたということを象徴的に書いている。当時、市大の学内には、「進歩的」思想が蔓延し、特に商学部、経済学部においては教授が率先して反体制の立場を鮮明に取っており、マルクス経済主義的な考え方でなければ評価できないという風潮であったという。



市立大と機動隊
市大杉本キャンパスに突入する機動隊


高度経済成長の中で、マルクス経済学の牙城として左傾化してしまった大阪市立大学に大阪財界が愛想をつかし、近代経済学の優秀な学者を学閥に関係なく全国から集めて急速に台頭する新興の大阪大学経済学部に対し肩入れを強めたのも、むべなるかな、である。

かつて、朝日新聞社が系列の「朝日ジャーナル」という雑誌で「大学の庭」、「300万人の大学」といった大学に関する連載を行っていた。その大阪市立大学の項で、一般の大阪市民の市大に対するイメージが「デモばかりやってる困った連中」という感想だったというように記憶している。ただし、この「困った連中」のニュアンスが、「地元の国立大の学生に優しい」とされる京都や熊本市民の抱いていた「近所のやんちゃ坊主」に対する愛情あるそれとは違い、大阪市民の市大生に対するそれは、謙遜や修飾ではなく掛け値なしの「厄介者」というニュアンスで使われているとの解説を読み、大いに驚いたことを記憶している。

現在おおさか維新の会がすすめる市大、府大の公立大学一元化の流れの中で、一般市民から大きな反発が全然見られないのも、根底にこの「厄介者」という意識が働いているのであろうか。


紛争で荒廃
大学紛争で荒廃した市大の時計台



筆者は、大阪市立大学OBの作った下記のHPを昔から承知している。HPの中心部分をすでに閉鎖されているのは残念であるが、在学当時の市大についての記述が残っているのでご紹介しよう。

この管理人氏は、平成になってからの市大OBであるが、上記の市大の独特の「伝統」は、大学紛争を乗り越え、共通一次世代まで延々と続いていたようである。


「えんたろうつうしん」より

追憶記

http://www.asahi-net.or.jp/~wa4k-ngtn/leftists/01sayoku.html


左翼関係年表

http://www.asahi-net.or.jp/~wa4k-ngtn/leftists/history.html


《参考》


『思い出そう大阪――関一市長と企業家精神(核心)


2015/05/18 日本経済新聞 朝刊 4ページ より


日本経済新聞 論説委員長 芹川洋一


 大阪市が日本最大の都市だった時期があるのをごぞんじだろうか。大正の末から昭和のはじめのころだ。大正14年(1925年)、周辺の町村を編入して人口で東京市を上回ったのである。人はそんな大阪を「大大阪(だいおおさか)」とよんだ。
 人口だけでなく産業でも繊維をはじめ全国一の工業出荷額をほこり「東洋のマンチェスター」ともいわれた。大阪がいちばん光り輝いていた時代である。その立役者が、そのころ市長をつとめていた関一(せき・はじめ)だ。
 今や地元でも記憶がうすれてしまった政治家だが、都市政策の先駆者だった。当時、小倉百人一首になぞらえて「これやこの 都市計画の権威者は 知るも知らぬも大阪の関」と詠まれたぐらいである。
 関東大震災のあとの「帝都復興」で歴史に名を残した後藤新平を思えば、もっと評価されていい人物だ。
 大阪市の中心部、中之島の中央公会堂前の木陰に関の銅像が立っている。20周忌の記念で、56年に建てたものだ。脇に顕彰碑がある。風雨にさらされて、文字ははっきり読めない。その脇をあたりまえのように人が通りすぎていく。往事茫々(ぼうぼう)である。
 関とはどんな人だったのだろうか。芝村篤樹著「関一 都市思想のパイオニア」の助けもかりながら、その人となりを紹介しよう。
 1873年(明治6年)、静岡県伊豆で旧幕臣の子として生まれる。高等商業(現在の一橋大)の本科に進学し、卒業後は大蔵省、神戸商業、新潟市立商業をへて、97年に24歳で母校の教授に迎えられた。
 翌98年からは3年間ベルギーとドイツに留学。帰国後は交通論や商業政策などを講義した。しばらくして東京帝大に東京高商(1902年に改称)を吸収合併する話が浮上。ごたごたがつづいた。関はすっかり嫌気がさした。そんなとき大阪市助役に請われた。
 転身を決めた。だが引きとめ工作は執拗だった。なぜ格落ちの大阪市の助役になるのかという疑問からだ。実業界の大立者である渋沢栄一も関を自宅に呼んで思いとどまるよう説得した。が、決意はゆるがなかった。14年助役に就任した。
 市長になるのは23年。そこから学問に裏打ちされた都市政策の実践がはじまる。100年先を見すえた大阪の大改造計画だ。
 メーンの事業が御堂筋の建設である。6メートルの幅を44メートルにして南北に延びること4kmの道路にするものだ。市民は「滑走路つくるんかいな」と肝をつぶした。その下に地下鉄を走らせるというから2度驚いた。
 それだけではない。ねらいは住み心地の良い都市づくりだ。公営住宅や公設市場をつくった。初の市立大学として大阪商科大(現在の大阪市立大)も設けた。大阪城の天守閣の復元もそうだ。市長が音頭をとると150万円の寄付が集まった。35年、惜しまれながら現職のまま亡くなった。市葬には8万人が参列。その模様はラジオ放送された。
 25年12月に創刊した「大大阪」という雑誌がある。巻頭をかざる関の論文に次のようなくだりがある。
 「三百年来養成せられたる市民の企業的精神は、新時代の産業組織に順応し、わが国の経済上の発展に貢献するとともに、市勢の伸張を促してやまざるの結果をもたらした」――。
 関のいうように大阪には旺盛な企業家精神があった。それは大阪商工会議所の「大阪企業家ミュージアム」(中央区本町)に足を運ぶとよく分かる。松下幸之助を右代表に本当に多くのアントレプレナー(起業家)をこの町は生み出した。
 大阪発のヒット商品・サービスがたくさんあるのもそのあらわれだ。回転ずし、インスタントラーメン、レトルト食品、ビアガーデン、カラー下着、プレハブ住宅、自動車学校……枚挙にいとまがない(井上理津子著「はじまりは大阪にあり」)。
 しかしどうも、その企業家精神が弱くなってきているのではないだろうか。
 宮本勝浩・関西大名誉教授(経済学)は「すぐ東京のまねをしたがる。安易に東京方式をもってきていないか。大阪発のクリエートなものが出てこない。創造する意欲や力が落ちている」とみる。
 関西経済同友会の代表幹事もつとめた、がんこフードサービスの小嶋淳司会長も「世の中の役に立つ使命感があって、その結果として利益を得るというのが大阪の商売の考え方だった。その精神が若干おとろえてきたのではないか。簡単に売り買いできる便利さができて、身近な利益も得られるから、安易に流れる気風が出てきた」と嘆く。
 関西でも京都の企業は地元に根をおろしたまま、世界をめざした。ローカル(L)から一気にグローバル(G)に打って出たLG型である。大阪の企業はまず東京に出て、全国区のナショナル企業(N)になろうとした。ローカルからナショナル、そしてグローバルへのLNG型だ。
 最近、元気があるのはLNGではなくLG企業の都市だ。国をこえていきなり世界とつながる。グローバル化とはそういうことでもある。地方がめざすべきは東京ではない。世界だ。
 関一にみられた進取の気質と将来を見通したグランドデザイン。そして企業家精神。大大阪復活への解は、実は大阪の中にある。 』

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