昭和53年4月に発行された毎日新聞神戸支局編「神戸大学」より、新制大学移行にともなう混乱を読む。



『ひと口に「総合大学」といっても、そんなに生やさしいものではなかった。

「あんなソロバン、簿記の“前垂れ”大学なんかの風下に立てるか」旧制姫路高の教授会はもとより、在学生、同窓会など“姫高一族”は、最後まで、神経大(筆者注;旧制神戸経済大学のこと。母体は官立神戸高商)との合併-神戸大学発足に抵抗した。


姫路高等学校―。軍都・姫路に大正十三年開校された。県内で唯一の官立旧制高校。白線帽にほお歯ゲタの学生は、姫路城を望むゆったりしたキャンパスで、天下国家を論じ、旧制高校特有の校風を培っていた。「ああ白陵の春の宵、惜春の譜の流れきて・・・・」の寮歌が、毎夜のように自治寮から聞かれた。出身者の大半が、京大・東大など帝大に進み、姫路市民は「姫高の学生さん」と呼んでエリートの卵を大切にした。

片や、神経大は、“実学の府”。旧制高校から進学する者のほか、旧制中学から予科に入学する者もいたが、商業学校、高等商業を経てやってくる学生も多く、卒業生の大半が経済界へ巣立った。

こんな両校の校風は、全く違っていた。

旧制高校、専門学校の大学昇格という、占領軍の教育改革の基本方針が明らかになると、姫高はまず独自で「姫路大学」の創設を考えた。事実、旧制高知高を母体に高知大学、松江高を中心に島根大学というように各地に“駅弁大学”が誕生した。

しかし、姫高だけでは到底満足な大学を作れないとわかると、今度は京大との合併話が持ち上がってきた。

京都と姫路―いま考えると夢のような話だが、当事者は真剣だった。京大も教養課程が旧三高だけでは不十分なので、姫高に白羽の矢を立てた。姫高は教官にも京大出身者が多くて近親感が強く、願ってもない話。

「二十三年夏ごろでしたか、京大の鳥飼利三郎総長が来学されました。姫高教官のほとんどが賛成で、教室に集まって“京大姫路分校”の青写真づくりに熱中したものです。」

当時、姫高の心理学教授だった中村秀(神戸大学名誉教授)は三十年前を語る。

しかし、帝大所在地以外は一県一国立大学という原則の前に、京都と姫路を結ぶ“雄大”な構想も一夜の夢に消えた。

こんないきさつは、合併話を詰めて行く中で、しこりとなって尾を引いた。

「神経大の教授の中には、旧制高校はもちろん旧制中学の体験もない人がたくさんおられた。だから、われわれとは肌合いが違った。こちらが反発したせいもあるでしょうが、姫高にうらみでもあるんじゃないかと思うほどいやな先生もいました。」と、中村は当時の模様を話す。

神戸大発足に先立って、神経大が中心になって教官資格審査が始まった。著書、論文、翻訳何点といった業績中心主義の研究より、教育に生きがいを覚え、それによって評価されていた姫高教官にはきびしいものだった。

「A級総合大学を」というスローガンの前には“風格”だけで教授の資質にはなり得なかったのだ。

姫高で、京大との合流を強力に推進したドイツ語教授、森川晃卿(大阪市立大学長)は講師への格下げがわかると、憤然として京大に去った。神戸大創設準備委員を務めた松岡慎一郎姫高校長も神戸大発足と同時に大阪学芸大(現・大阪教育大)に転出した。

こうして、二十数年間の歴史を持った姫高は、神戸大姫路分校に衣替えし、教養課程の学生の約半分を受け持ったが、三十九年四月、灘区鶴甲に教養部が発足、その年の九月、最後の分校生が専門課程に進むと、姫路分校も廃校になった。

五十数年の歴史を刻んだ校舎は、今、県立姫路短大(現・兵庫県立大)として行き続けている。

校内の一角にある第三代校長、木村善太郎揮毫の「ああ白陵の碑」にたたずみ、往時をしのぶ年配の旧制姫路高出身者の姿を、時折見かけることがある。

(昭和五十三年 毎日新聞神戸支局編「神戸大学」より)




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