過激な行動に走る人・・・つまり、天国や地獄に囚われる人たちの特徴とは、簡単に言えば「今、ここ」にいないということだろうと思います。
過去に囚われるならまだしも、なんと・・・未来に囚われているというカラクリに本人自身が気づいていないということです。
未来に囚われる・・・これほどのマインドトリップが他にあるでしょうか?
確かに苦痛な状態を「地獄」そして、心地よい状態を「天国」と形容することは私にもあります。
但し・・・厳密には私だって、それがどんなものなのか?あるいは何処にあるのか?となると・・・実は何も知らない訳です!(苦笑)
あなたは知ってますか?
地獄とか天国について、もしも私よりも詳しく知っている方がいたら是非ともレクチャーして欲しいと、私は本気で思っています。
何故なら、それについては私は何も知らないからです。
大方の人は天国とか地獄に関しては、ああだろうとか、こんな筈だとか・・・信じてしまっている可能性は考えられないでしょうか?
実は、そのルーツを辿ると間違いなく何かの宗教にたどり着く筈です。
煩悩にしても原罪にしても、私に言わせたら似たようなものです。
そんな救いようのないこの現実の世界に、救いの手を差し伸べるとされている神や仏や菩薩や天使や、あるいは霊能者や教祖・・・星の数?かなと私は捉えています。
もちろん私は、それらが全く役に立たないとは言いません。
何故なら石に躓いた拍子に悟る人もいれば、夜明けのカラスの鳴き声で悟る人もいるからです。
何がトリガー(引き金)になるかは、実は誰も確かなことは言えないという現実があります。
ところで救いとは、未来にあるものでしょうか?
今この瞬間に、こうして生かされて呼吸が出来ているだけでも有難いと感じて、そして大いなる流れの中に身を委ねて寛ぐ・・・肝心なのはやはり「今・ここ・私」が分割されていないということだろうと思います。
これが難しい人だけが、未来に「救い」を求めるのではないでしょうか?
救いや悟りの引き金は、文字通り様々だろうとは思いますが・・・最終的には、何が決め手かを知る者にとっては「救い」は自分自身、つまり内側からしかやって来ないもののひとつです。
「今・ここ・私」が分割されていない者だけが、明日や未来にではなく、この瞬間に寛ぐのではないでしょうか?
更なる続編では、そんな救いに関する私なりのアプローチや哲学で締めくくりたいと思います。
それでは、また近いうちに!!