涙にはいくつかの種類があります。
悲しみの涙、悔しさからの涙・・・そしてショックや恐怖からの涙。
更に忘れてはならないのが、今日のこの句の喜びの涙だろうと思います。
結婚式などで感極まる時の涙は、その筆頭かも知れません。
さぁ、この喜びの涙・・・そこには反対の要素もなければ流れないと思うのは私だけでしょうか?
喜びの 涙をふやす つらい日々・・・
常に順風満帆で迎えた場合には晴れの日が来たとしても・・・どうなんでしょうか?
私にはそんな経験もないので、あまり偉そうなことは言えませんが・・・何となく感極まるとはならないような気がしてなりません。
この句の言わんとするところは、正にそんな反対の要素の見直し・・・あるいは存在価値に焦点を当てたものです。
私自身も結婚式に限らず、何度も喜びの涙が流れた体験はあります。
あれは不思議なもので・・・確かに泣いてはいるものの、幸せのクライマックスという言い方も可能な状態だろうと思います。
麦が踏まれてこそ強く育つように、雨や嵐もあるからこそ快晴の日の太陽が有り難いように、つらい日々にも・・・
私はそれなりの存在意義があると思うようになって来てはいますが、実はそんなに遠い昔からではありません。
命の他には人生のすべてを失ったと言っても過言ではない、あの世紀末の体験から数年は経ってからのことです。
今はこうして命があり・・・いや、大いなるたったひとつの命の慈悲により、罪深い私でさえ生かされているだけでも儲けものという、そんな心境の時さえあるくらいです。
目の前に壁があろうとも、思うように行かないことが続いたとしても・・・今日のこの句は自分も含めて、そんな人たちへのささやかなエールとして生まれたものです。
つらい日々だって、嫌われてばかりでは何だか救いがないと感じて、私なりにその存在意義を見いだした一句・・・ということで、今日はそろそろこの辺で!
喜びの
涙をふやす
つらい日々。
~アモンの哲句より~