3.11から7年

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その日は、

普通の金曜日だった。

 

 

当時、正社員で勤務していた

会社の9階から外を見て

 

「暖かいね。ビールでも

飲みに行こうか。」

と、同僚と約束メールをしていた。

 

 

 

 

私は15;00からの

定例会議の資料を

人数分まとめていた。

私は議事録担当だったので

ICレコーダーを庶務で

借りて席に戻ったときだった。

 

 

 

 

ドーンと下から突き上げる

揺れがあり、大きく左右に

ぐら~んぐら~んと

揺れ始めた。

 

 

 

当時、勤務していた会社では

地震や台風が上陸したときは

部屋の壁側にある

テレビを点けるのが

暗黙の了解だった。

 

 

 

 

「どこ?」

「わからない。」

「何が起きたの?」

「大きいぞ、これは」

・・・

 

 

 

 

免震構造のビルだったので

ずーっと大きくゆっくり

左右に揺れていて

乗り物酔いのように

気分が悪くなった同僚が数人いた。

 

 

 

 

防災センターから

「避難してください!」

という、指示があって

ヘルメットを被り避難靴を履いて

非常階段から降りた。

 
防災訓練て本当に役立つんだ。
みんな黙々と下りていた。
 
 

 

 

 

1階に辿り着いたら

既にエントランスが大混雑しており

全ての電車がストップしていて

退勤したとしても帰宅が困難に

なっていると知らされた。

 
携帯電話のワンセグを
観ているひとを囲んで
情報を得ようとあちこちで
輪になっていた。
 

 

 

 

「戻ってください。」

という総務人事の

少し途方に暮れた指示が

あり、また階段で9階に

戻ることになった。

 

 

どうやら震源は東北らしい

という、話が広まり

何が何だかわからない状況で

私たちは会社からの指示を待った。

 

 

 

 

 

時間が経つにつれて

これは帰れないな、と

帰宅は諦めたと同時に

これは大変なことになったと

だんだん怖くなってきた。

 

いつもの金曜日じゃない。

これは夢じゃない。

 

 

 

 

 

窓から見下ろすと

物凄いひとの行列が

歩道を埋め尽くし

車が行き止まりにぶつかったかの

ように少しも動いていなかった。

 

他の階で、水槽が倒れてきて

それを手で受け止めたひとが

ガラスでザックリ切ってしまい

大変な怪我をして出血がひどい

という情報が入ってきた。

しかし救急車が来ないとのこと。

 

消防車も救急車も動けず

大渋滞になっていたのだ。

 

 

その方は取り合えず救護室で

常駐の看護師さんが

止血しているとのことだった。

 

 

 

 

「そちらの部署は大丈夫ですか?」

「ああ、大丈夫。」

 

「怪我人が出ていませんか?」

「こちらはゼロです。」

 

そんな上司と防災センターのやりとりを

私はテレビを観る感覚で

眺めていた。

 

 

 

これ・・・現実?

 

 

 

社内のテレビの画面には

東北の海岸付近の

信じられない映像が

繰り返し流されていて

政府の緊急会見が

行われていた。

 

 

あちこちで声が上がっていた。

「電話が通じない!」

「固定電話ならかかるよ」

「PHSなら繋がるらしい!」

「PCからメール送ったほうが早い。」

 

 

 

 

携帯電話が通じなかった。

家族はどうしているのか。

保育園に迎えに行かなくてはならない。

東北に親が知人が友人がいる。

どうしているのか。

安否がわからない。

 

テレビ画面からは

津波の映像が流れる。

同僚の女性が泣き出した。

 

「あそこのひとたちは

どうなったの!?

怖い怖すぎる!」

 

 

 

 

防災センターや

管理部や総務人事からは

「帰宅できないひとは

会社に泊まって下さい。」

 

と指示があり、

防災備蓄の毛布が

あちこちで貸与された。

コンビニも品切れになったので

防災食の乾パンや水を

各部署の庶務担当が

代表で取りに来るように

管理部から連絡があった。

 

 

 

夜になった。

 

社内では、みんなお菓子やら

乾パンやら食べながら

テレビを観ていた。

家族と連絡がつかない

社員たちが

子供がどうしているのか

不安で携帯を掛け続けていた。

 

 

 

 

私と同僚は窓から

車の渋滞と

歩道を行列のように

整然と歩いて帰宅している

人々を見ていた。

 

 

 

「なんか嘘みたい」

「そうだね。ドラマか映画のようね。」

「津波も映画みたい。」

「そうね。」

 
 
 
 
映画より現実のほうが
怖いかと思っていたけど
それが現実に起きると
意外にも無感覚で眺めていた。
ショックが余りにも酷いと
受け止められないのかもしれない。
 
だいぶ後になってから
だんだん怖くなってきたのが
不思議だったのを憶えている。
 

 

 

 

 

 

歩くと言って帰宅した社員もいた。

私は、21時過ぎに先輩から

「タカコ!大江戸線は動くらしい!

帰るなら早く出たほうがいい。

と、言われて会社を飛び出した。

 

 

 

 

街では泣いているひともいたし

電車は混雑を通り越していたが

誰も何も文句を言わず

ホームに落ちそうになったり

ドアに挟まれそうになったり

危険な状況だったが

あちこちのドアで男性達が

腕で女性達をかばい

「先に乗ってください。

僕は後でいいです。」

と、押しつぶされないように

女性や子供を先に乗せてくれていた。

 
 
私も、知らない男性たちに
さっと腕を貸してもらい
押されて階段から落ちずに済んだ。

 

 

 

 

そして何とか

乗車出来て帰宅できた。

(あのときの男性の方々

ありがとうございました。)

 

 

 

無事に帰宅出来たが

部屋に入ると

冷蔵庫が左を向いていて

テレビがギリギリ落ちずに

止まっていた。

 

 

本棚からは

本が全て落ちていたし

部屋がゴチャゴチャになっていた。

ガスも止まっていた

 

妹からメールが入り

無事が確認出来て安堵した。

両親のいない私たちは

お互いをいつも案じているので

安否確認が出来てホッとし

涙が出たのを憶えている

 

 

 

 

 

あ、妙子ちゃんはどうしただろう。

確か多賀城市だったはず。

仙台で働いている

友人のことを思うと

背筋が寒くなった。

 

 

 

彼女は無事だった。

当時、青葉区の伊勢丹の

売場で販売をしていたので

津波には巻き込まれなかった。

ご両親も仕事だったし

お兄様は東京へ出ていたから

家族は助かった。

しかし、家は流されてしまった。

 

家具や洋服、仏壇だけでなく

思い出が詰まったアルバムも

全て流されてしまったのだ。

 

 

 

 

避難所から私宛に

メールが来たのは

だいぶ経ってからだった。

 

携帯を充電出来なかったのと

それどころではなかったのだ。

 

 

 

彼女の無事が確認できて

私は安心した。

本当に良かった。

以前、鹽竈神社・志波彦神社に

参拝したとき、私は

彼女の家に泊まっている。

そのとき一緒に玄関前で

写した携帯写真を

彼女に送信した。

 

 

 

彼女から返信がきた。

 

「タカちゃん、ありがとね。

家は流されちゃったけど

タカちゃんの写真が残ってて

本当に良かった。

ありがとね。」

 

 

 

私は泣いた。

 
 

 

 

 

 

 

 

あれから七年。

 

こんなに東北から離れた

地域の私でさえ

一生忘れない一日でした。

 

 

 

 

震災で命を失われた皆さまに

祈りを捧げます。

 

仮説住宅にお住まいの方々

避難生活で帰宅出来ない方々

原発の風評被害や差別や偏見に

さらされた方々

復興に向けて進んでおられる方々

 

 

 

まだ、震災前の状態に

戻るまでは遠いようです。

 

あれから、熊本や大分でも

大地震が発生し

多大な被害が出ました。

 

これから先も

各地で地震や火山噴火は

発生するでしょう。

 

 

 

私たちは

これらの災害を風化させずに

減災への備えを

忘れないでいきたいですね。

 
各地の復興を
日本全体で応援していきましょう!!
私も心から
応援しています!!

 

 

 

 

今年もまた

3月11日がきました。

 

 

 

 

 

 

 

 

祈りはエネルギーです。

エネルギーは時間も距離も次元も超えます。

かつて生きていた人々へ届きます。

黙とうをいたしましょう。

 

 

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