思い返せば、私を救ってくれた手は、いつも「血のつながり」の外側から差し伸べられてきた。
家族でも親戚でもない――それでも、私がピンチになった瞬間、真っ先に支えてくれた人たちがいた。
中学二年のバレーボールの試合の日。コートの中で皆の前で発作が起きて、尿失禁をしてしまい、情けなさと申し訳なさと恐怖に襲われ呆然と立ち尽くす私に、チームメイトは迷わずすぐに駆け寄ってきてくれて、濡れた足元を拭き、声をかけ続けてくれた。チームメイトのお母様が「はるかちゃん、病院に行ってみたほうがいいよ」と、母に対しても説得してくれたおかげで、私は病院を受診することができた。
高校二年で手術が決まったとき、アルバイト先にしばらくシフトを入れられなくなることを報告すると、エリアマネージャーがすぐに来てくれて、「心配だよ。身体が一番大切だから。焦らなくていいからね。どれだけ休みが長くなっても,あなたの居場所はちゃんと用意しておくから、いつでも帰ってきてね」と言ってくれた。
病気に対して大人から心配や配慮の言葉をかけてもらったのは、この方が初めてだった。思い返せば、病気を発症してから配慮する言葉や心配する言葉をかけてくれた人は、少なくとも家庭内や親族内、学校関係者の大人には1人もいなかった。ああいう優しさを持つ大人もいるのだと初めて知った。
そして、高校を卒業したらすぐに家を出ていけと言われ、保証人や緊急連絡先になってくれる身内がいない私に、「いいよ、私がなるよ」と言ってくれた友人。
在学中に病気が再発し、再び手術が必要になったときには、看護学校の先生が涙を流しながら話を聞いてくれて、入院中は毎日電話をくれた。
――思い出すほど、胸の奥がじんと熱くなる。
私がなんとか生きてこられたのは、“血”ではなく、“心”でつながってくれた人たちがいたからだ。
あのとき差し伸べられた手の温かさが、今も私を生かしている。
首藤はるか