「またこの日が来る」。
3月に入ると毎年思います。
8年前の3月11日、確か金曜日。
その頃は派遣として働いていて、6階建てのビルの6階に勤務先がありました。
いつものように仕事していて…
14時半過ぎですよね。
揺れが来て。
「ガッシャーーーン!」
コーヒーポットが落ちて割れる音。
「○○さん危ない! 離れて下さい! 」
自分の声。
まるで他人事のようにあの時の光景が思い出されます。
「外に避難!」
他の部署から聞こえて。
そうだ、あの子妊娠初期だ…
15時半から○○君が来る
知らせてもらわないと
一緒に使っていたロッカーから
二人分の上着をはずし
腕を組んで階段を降りて
まだギリギリつながったケータイから
派遣会社の担当者にメールしました。
外に出てまた余震が来て悲鳴が上がって。
晴れてたけど風が冷たかった。
帰宅命令が出るもやはり電車は動いてない。
どうやって帰るか。
「歩いて帰ります」。
水だけ買っておこう。
ゲートを抜ける前に自販機で水を買い、
同じく電車組の人達と4人で歩いてて。
施設の入り口が封鎖されて中には入れず
横の車道では施設に向かってた車が
前にも後ろにも動けない状態でした。
その時、本当にたまたまタクシーが1台通りかかり、乗ることができました。
なるべく渋滞を避けて、
途中「皆さんお手洗いは大丈夫ですか」とまで気にしてくれて。
そのおかげもあり無事に帰宅。
電気…大丈夫。水、大丈夫。
ガスも大丈夫だ。
テレビも点く。…けれど。
実家に電話してみるもつながらない。
「お母さん達も大丈夫だと思うよ。
桜夜も外いる時、塀とか近づかないようにね!」と青森のいとこからのメール。
明日見に行かないと。
(その頃には家を出て
実家から車で40分くらいの町にいました。
小学校まで住んでた町です。)
夜中もずっと緊急地震速報の音、
鳴りっぱなしでした。
翌日、実家へ行く前に寄ったガソリンスタンドは列ができていて、レギュラーは売りきれ。
「○○店ならまだあるかもしれません」
と言われ…。
でも着いた時どうか分からない。
そうだ、軽油車じゃないからハイオクを入れるのは大丈夫なんだっけ。
まだ給油制限がかかる前でしたので、満タンにし実家に向かいました。
実家の町は停電になったようです。
しかもたまたまその少し前、家のガス(プロパン)をIHにしていたようで。
「誕生日が地震の日になっちゃったよ」
なんて父は言ってましたけれど。
人生で2回目だね。
中学くらいの時、地震で家もおじいちゃんのやってた写真館も全壊して関東に来たって昔言ってたことあったよね。
シロはちゃんといる?
妹からは連絡あった?
お母さんは? 病院行ったの。
そっか。「医療従事者」だもんね。
こういう時、本当は一人でいない方がいいんだろうけれど。
いったん実家に戻るか、
そのままアパートに帰って一人で過ごすか…。
実家に戻ったらどこ行くにも車がいる。
ガソリンが切れたらアウト。
私の町。
とりあえず歩きか自転車で何とかできる。
暮らしに必要な店も近い範囲に何軒かある。
幼稚園からの友達一家も歩いて行ける距離に住んでる。
実家には戻りませんでした。
来る時に寄ってきたガソリンスタンドは、
帰る頃には品切れで閉店。
その後何ヶ月か閉店したままで、
再開の明かりが点いたのはだいぶ後でした。
それまでは車を極力使わず、
歩きと自転車で過ごしていました。
その翌週、会社に向かう通勤電車。
いつもより海外の人が明らかに多かった。
中にはお母さんが子供の肩を抱きかかえていて、すごく悲壮感いっぱいな表情浮かべていて。
きっと自分の国に帰るんだろうな。
逆に今、目の前に立ってる私達のことはどういう風に見えるんだろ。
そんなことを思いました。
一緒に働いてた方は娘さんの嫁ぎ先が津波被害を受け、片付けを手伝いに行ってきたと。
「水が庭先のこの辺まで来た!」
「うちの方、水が出なくなって。
復旧5月くらいだって。」
「家がかなり傾いてうちの地域、国の人が来て見て行ったよ。でもねー」
普通に仕事行って帰れるだけで貴重だったんだなと。
テレビで見る惨状も
身近な周りの人も大変だった。
だからなんとなく
あの日の自分のことは口にできないような気がしてました。
けれど、前日・翌日は大丈夫なのに、
当日になると今もものすごく気持ちがふさぎます。
(これを書いてる今はまだ日曜日です。)
理由はよく分かりません。
忘れないし忘れられる訳がない。
そのためにも一度書こうと思い、
今年は書いてみることにしました。
最後までお読みいただき
ありがとうございます。
体には本当にお気をつけ下さいね。
