夜を迎えた都市アルセイデス。一年前に新設されたばかりの士官用酒場は、混んでいた。燭台から漏れる光に、歴戦の戦士達の逞しい身体がぼんやりと照らされている。
この都市では旧王国時代の悪習である、学校上がりの士官は存在しない。士官は皆、過去に一兵卒として前線で戦ったものばかりだ。それから困難な数々の試験を突破し、初めて任官できる。これは、軍の兵士達の上官への忠誠と信頼、結束といったものを増す効果があった。実戦経験の無い若僧の士官が安全な後方から、軍を指揮することはしないのだ。
混乱の時代、若い男の多くが立身出世を目指すのが、剣の道だった。故に、士官用酒場は多くの若者の羨望の的となっているのだ。
奥のテーブルでは、二人の防衛軍将官、アトラトルとブラックジャックが酒を酌み交わしていた。
「ジャック、おまえらしい失態だ。われらの主君フレイルが聞いたら怒り狂うだろうな」アトゥルは同格の同僚をにやりと皮肉った。「主君の招待客を部下の兵士達に襲わせた上、監禁して尋問までするとは」
「わかるはず無いだろう? 主君から聞いていた話では、招待客は戦いを嫌う、無力な少年に過ぎないはずだった。それが……」ジャックはむすっと、グラスを傾けた。「見たこともない手練の刺客だったぞ、あのダグアという青年。その気になればわたしの警備兵の一小隊くらい、軽く全滅できるほど! わたしは警備兵総監として、獄舎へ連れていき彼の素性を調べずにはいられなかった」
「面白い幕間劇だったようだな。その場に居合わせなかったのが残念だ」
「笑いごとか! こちらの身にもなれ」テーブルに、グラスが叩き付けられる。割れはしなかったが、中身がこぼれた。
「怖い怖い」アトゥルは恐縮した振りをして、両手を上げた。右手は筋骨隆々、太く大きく逞しいが、左手は無く、代わりに鉄製の鈎爪つきの義手が付けられていた。アトゥルは過去の戦いで、左手を失っていたのだ。
以前は巨大な槍斧ハルバードを振り回していた彼だが、今はその得物は持てない。左手は、盾を括り付けるか、騎馬や騎竜の手綱を巻き付ける役にしか立たなかった。それでも、大抵の戦士の攻撃は受け付けない力を持つ屈強な重戦士だが。
ジャックは頭を抱えた。「せめて初めから名前を知ってさえいれば。ああ、フレイルになんと報告すれば……」
「首席秘書官の、あのかわいこちゃんに頼めばどうだ? 彼女なら温和に取り成してくれるぞ」
「スティレットか。そうしよう」彼女はアトゥルの旧友なのだ。その人柄と才能、美貌、魅力に惹かれる者は多い。ジャックもその一人だった。スティに付き合っている特定の男がいないとなれば、なおさらだ。
「餓鬼みたいに赤くなっているぞ、泣く子も黙る警備兵総監どの」
「止めろ。アトゥル、酒が進み過ぎだぞ」ジャックは不機嫌に言った。
アトゥルは軽く返す。「彼女の意中の思い人は、三年前に戦死した。ジャック、おまえにも見込みがあるぞ」
「仕事が忙しすぎて、それどころでは無いさ。無理し過ぎだよ、彼女は。この都市の行政、司法、立法のほとんどを一人で手がけている」
「そういえば何と言ったか、扇動家の……そう、カルトロップはそれらを分権すべきだと主張しているらしいな」
「そんなこと、ただの軍人のわれわれが考えることではない。そういえば、カルトロップは、魔術師ではないかとの噂がある。ダグアとやらも、不可思議な能力を秘めているという。千里眼だ。失われて久しい、魔法の力」
「どれほどのものかな。魔法使いと名乗る者のほとんどは、騙りだが」アトゥルは、嘲笑的にはっと息をついた。「以前、同僚に自称魔術師がいたが。いざ戦闘になると、真っ先にこそこそと行方をくらましたよ」
「だが、ダグアは本物だ。所属していた部隊、シオンズランスの功績が証明している。その力だって、事実無根ではない。過去の人間は、自由に異国にいる遠くの人間と会話することができたという。同じ原理で遥か遠くの光景を目にすることもできたとか」
「それは、夜迷い事であれ。重大事だな。軍事に応用すれば」
「だからなんとか、ダグアを探し出さなければな。先日、フレイルの以前の仲間が訪れていた。処刑刀で名高いソード・ケインが。一応、彼らにも伝えておくか。まだ遠くへは行っていないはずだから」
「ケイン?」つぶやいた陽気な巨漢の表情が、不意に固くなり陰った。青ざめたアトゥルは恐怖と苦痛を思い出していた。彼の左手を切り落としたのは、ケインの相棒、ヤイバだったのだ。名誉を賭けた、槍組同士の試合で。
「わたしはもう、失礼する。飲み過ぎるな、明日も捕らえた竜の調教があるのだろう?」
アトゥルは顔を上げた。しらけてしまった。もう、飲む気はしない。一緒に店を出よう……返事をしかけたとき、突然ジリジリと耳を劈く音が鳴り響いた。二人の将校は、反射的に立ち上がった。他の客も同様だ。非番とはいえ無視できるものではない。
「警鐘!? あの音は……」ジャックはアトゥルに目配せした。
「竜の空襲だ! 緊急出撃!」アトゥルは駆け出した。夜に襲ってくるとは! 視界の封じられる危険な行為だ。ならば空賊の士気は、いつもより高いだろう。これは、少してこずるかもしれない。
「わたしも出る! 副官に連絡、街の警備を頼む。直ちに非常線配備!」ジャックも後を追った。
外へ出ると、彼らの騎竜が旋風を吹き下ろしながら降りてくるところだった。
……
二騎の竜は、乗り手を乗せ都市の上空に舞い上がった。離れた所に、もう一騎飛んでいる。アルセイデス太守、フレイルだ。三騎の竜騎兵は、いつものように直ちに編隊を組んだ。
たちまち、夜空を舞台に激しい空中戦が始まった。街は非常体制下にあり、篝火がこうこうと焚かれている。敵竜は、数は多い……空賊団のそれらは、十頭は下らないだろう。
それに付け込む形で、地上にも強盗団が現れ店舗や民家を襲っている。
そこかしこで喧騒があがる。駆け付けた警備兵との、戦闘が始まったのだ。短刀を片手に住民を威嚇し、民家の財布を盗むごろつきの群れ。そいつに刃向かって制止の声を上げ槍を突きつけているのは、この街から徴用された若者だ。
しかし賊どもの目的は都市の略奪であり、正面から竜騎兵と戦おうとするものはいなかった。数で上回るというのに仲間より危険を冒そうという空賊は、その親玉である竜騎兵にしてもいないのだ。だから良く訓練された三騎連携の攻撃に、耐えられるものはそうはいない。
そのフレイらの戦法は陸上の騎兵の戦術を応用したもので、主にアトゥルが立案した。機動性を生かし、局地的に戦力を集中するのが主眼だ。だが半ば伝説的となっている、撃墜王はたった一騎で多くを撃退できるという。なにか特別な戦法が、あるのだろうか。それさえ得られれば……空賊に使用されたら重大事だが。
フレイルらの竜が近付くとばらばらで連携の取れていない空賊の竜は、慌てて逃げる。それを、うまく地上の射手部隊の所へ追い込めれば最上だ。フレイは目標を変え、再度突撃する。敵が逃げれば手近な別の目標へ。
これを繰り返す内、空賊団は壊走を始めた。フレイはそれを確認したが、牽制のために宙に留まっていた。数で勝る敵を追撃する危険は犯せない。いつも空賊を撃退できるのは、地上からの支援があればこそできるのだ。
フレイは戦況を確認した。撃墜した敵竜は、一頭。軽傷が二頭くらい。いつもの小競り合いでは、こんなものだ。予想より戦果は多いほどだ。味方竜騎兵に怪我がなかったことが幸運だ。
フレイは声をかけた。「終わったわね、アトゥル、ジャック!」
「まだ、終わっていません。思ったより火災が広がっています、民兵を割いて消火に当たらせましょう」アトゥルは答えた。燃え上がる家屋の方へ、降下していく。竜の力なら炎上する建物の周辺を壊して、延焼を防ぐことができるのだ。
「敵の主力は竜騎兵ではなく、地上部隊だったようです。わたしは今から現場で指揮を取ります」ジャックは、高度を取った。盗賊どもの姿を探す。頼みの綱の竜騎兵がいなければ、強盗団など容易い獲物だ。目標を見定めてから、降下する。街路の上を滑るように飛び、威嚇して追い散らし、組織だった抵抗が出来無くすればいい。
後は、もはや事後処理。混乱の収拾は時間の問題だった……
アルセイデス市民にとって、恐怖の一夜は明けた。空中戦を伴う戦いは派手な色彩があるが、実質は小競り合い程度の物だった。死者は、こんな言葉が許されるものならば、許容される程度。火災もすぐに鎮火し、被害は少なかった。生き残った多くの人々は、安堵の吐息をついていた。
しかし、一般には公表されなかった本当の脅威は、太守と将軍たちを打ちのめしていた。アルセイデスの行政機能は、麻痺するかも知れない。空賊どもはまさに都市の一つの生命線を狙っていたのだ。
「官舎が襲われた、だと? 空襲は陽動だったのか。それも……」報告書を読み上げるジャックの手は、震えていた。なんたる失態! 警備兵総監である、かれの責任なのだ。「……スティレットが人質になった」
(続く)
後書き 才色兼備な高官スティ誘拐! 責任はジャックに掛かります。彼はどんどん不幸になるので、端役ですが応援して下さい。スティの運命も。