私がこよなく愛したバスケットボール
日本を代表するバスケットボール選手は・・・
田臥勇太、NBAのプレイヤーですから~
田臥 勇太(たぶせ ゆうた、1980年10月5日 - )は、日本のバスケットボール選手。
ポジションはポイントガード。神奈川県横浜市金沢区出身。
リンク栃木ブレックス所属。
日本人初のNBAプレーヤーで、高校時代には世界ジュニア選抜に選ばれた。
身長173cm、体重75kg、靴のサイズ29cm。
アメリカ挑戦時代
2003年5月、トヨタ自動車アルバルクを退団し、同年7月、NBAダラス・マーベリックスのサマーリーグに参加した。同年9月、NBAのデンバー・ナゲッツと契約し、プレシーズン戦3試合に出場したが開幕ロースターには残れず解雇された。
ナゲッツのチームメイトには田臥よりも身長の低い165cmのアール・ボイキンスがいたが、ポジションを奪うことはできなかった。
同年11月、ABA(アメリカ・独立プロリーグ)のロングビーチ・ジャム・アルビレックスと契約した。
ロングビーチ・ジャムではデニス・ロッドマンとも一緒にプレイした。
2004年4月、ロングビーチ・ジャムで優勝を果たす。
2004年9月6日、NBAフェニックス・サンズと契約した。
同年11月1日、フェニックス・サンズの開幕メンバーに登録され、日本人として初めてのNBAプレーヤーとなった
(なお、日系人としては、それ以前にワッツ・ミサカこと三阪亙という日系アメリカ人選手がいた)。
その後、開幕戦を含む4試合に出場した(プレー時間は合計17分、7得点3アシストであった)が、同年12月18日に解雇された。
サンズでは後にシーズンMVP、アシスト王になるスティーブ・ナッシュの指導も受けた。
同月、ABAのロングビーチ・ジャムと再契約し、NBAへの復帰を目指した。
2005年9月、NBAロサンゼルス・クリッパーズと契約し、プレシーズン戦7試合に出場したがシーズン開幕前の10月31日に経験不足を理由に解雇された。
同年11月3日にNBA傘下のNBAデベロップメント・リーグに9巡目70位でドラフト指名され、アルバカーキ・サンダーバーズに入団した。
チームの主要選手として活躍したが、シーズン後半に怪我で戦線離脱した。
2006年7月、NBAダラス・マーベリックスのサマーリーグに参加した。
同年11月にNBAデベロップメントリーグのベーカーズフィールド・ジャムに3巡目11位指名を受けて入団した。
ジャムの前身はABAのロングビーチ・ジャムであるため、2年ぶりの古巣復帰ともいえる。
2007年11月にジャムのロースターから外れ、同リーグのアナハイム・アーセナルへ移籍した。
2008年7月、NBAニュージャージー・ネッツのサマーリーグに参加した。
日本復帰後2008年8月31日、能代工時代の指導者加藤三彦が率いるJBLのリンク栃木ブレックスに入団し、6年ぶりの国内復帰となった。
2008-09年レギュラーシーズンでは、アシスト王・スティール王の2冠に輝き、レギュラーシーズンのベスト5に選出された。
しかしチームは5位に終わり、プレーオフに進出できなかった。
2009年6月、NBAに再挑戦する意向を表明し、NBAダラス・マーベリックスから招待されたミニキャンプに臨んだが、直前の練習で右かかとを打撲し練習に参加できなかった。
同年7月、2009-10年シーズンはNBAを断念し、引き続きリンク栃木でプレーすると発表した。
2009-10年レギュラーシーズンでは、右かかとの怪我のために開幕から1カ月以上欠場した。
2009年11月28日に復帰後、レギュラーシーズンを2位で終え、チームをJBL昇格後初のプレーオフに導く。
2010年4月のJBLファイナルで、それまで2連覇していたアイシンシーホースを3連勝で破り、初優勝(日本一)を果たした。
田臥はチームの中心選手として活躍し、プレーオフのMVPに選出された。
また、年間ベスト5賞に選出された。
2010年4月、リンク栃木と来季2010-11年シーズンの契約延長に合意したと発表した。
同月17日、リンク栃木の本拠地・宇都宮市での優勝パレードに参加、沿道には約1万人の市民が駆けつけた。
同年7月、12年ぶりにバスケットボール男子日本代表の試合に出場した。
2010年11月、日本代表として初めて主要国際大会である2010年アジア競技大会(中国・広州)に出場、1994年アジア競技大会(広島市)以来16年ぶりのベスト4入りに貢献した。
準決勝で韓国に敗れ、3位決定戦ではイランに敗れたためメダル獲得はならなかった。
開催地が中国であることから各試合で激しいブーイングを受けたが、「国内ではできない経験をさせてもらっている」「相当嫌われているんだなと思うけど、見てろよ、とモチベーションになる」と感想を述べた。
2010-11年レギュラーシーズンでは、チームはプレーオフ圏外の6位で終わったが、東日本大震災の影響で3月11日以降の公式試合日程が中止となり、プレーオフ自体が開催されなかった。
個人成績では前年よりも落ち、平均アシスト数はリーグ6位の3.35であった。
しかし、ターンオーバー数は年々改善し、アシストをターンオーバーで割った数値(A/T)が前年の2.4を上回る3.5であり、安定したプレイをしていたといえる。