「基本的人権」と「村八分」 | ソウルメイトの思想

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唯物論に対する懐疑と唯物論がもたらす虚無的な人間観、生命観を批判します。また、唯物論に根ざした物質主義的思想である新自由主義やグローバリズムに批判を加えます。人間として生を享桁異の意味、生きることの意味を歴史や政治・経済、思想・哲学、など広範二論じます。

 以下にリブログさせていただくのは、著名なアニメーターでアメーバブロガーの平松禎史さんによる『「基本的人権」と「村八分」』と題する、深い示唆に富むご考察です。





上記のブログの中で平松さんは、イスラム武装勢力が支配する危険な地帯に足を踏み入れて、イスラム武装勢力に囚われ、幸運にも解放されたフリー・ジャーナリストにバッシングが向けられていることについて、

《政府がお墨付きを与えた取材だけに甘んじず、行動するジャーナリストの意志は尊重しなければならないと思う。

その人の持つ考えに「賛同する・しない」にかかわらず、生命の危機となれば救出に全力をつくすのが基本的人権の尊重であり、民主主義国の基本だろう。

ところが、日本では「自分たちの考えやルール」に従っているかどうか、が重視されるようです。

朝日新聞は、津田正太郎・法政大教授の話をこう紹介しています。

《「『ルールを守らない』とみなした他人に対して、自分の迷惑だと感じて、パブリック・エネミー(社会の敵)と決めつける風潮が強まっている」》

残念ながら、強まっているのではなく、日本人は元々そういう性質を持っている、ということです。

政治家や企業経営者の不正や不祥事、自然災害時の盗難事件、スポーツ観戦が加熱して起こる事件、異常な殺害事件、などなど、特異な事象が起こると「自分とは違う異質な人間がやっているのだ」と考え、攻撃する状況が、インターネットの普及以前からありました。

安田氏解放に関しては「反日ジャーナリストなど助けなくて良い」「自己責任論を言う者はグロテスクで意識が低い」

表面的には真逆だが、言っていることの本質は同じです。

こういうのをなんと言うか?

「村八分」です。

【村八分】

江戸時代以来,村落で行われた制裁の一。規約違反などにより村の秩序を乱した者やその家族に対して,村民全部が申し合わせて絶交するもの。俗に,葬式と火災の二つの場合を例外とするからという。

(大辞林第三版 以下同じ)》


 と書いておられますが、わたしは、平松さんの深い思慮な基づくご考察にひたすらうなずかされるとともに、この平松さんがお書きになられた文章を拝読する以前に自分がこの問題をどう捉えていたかについて思い出そうとしました。


 以前、わたしはアメーバブロガーの「17′democracy BLOG」さんがお書きになられた以下のブログに次のようにコメントさせていただきました。





《危険な場所に危険だと知りつつ赴くことや危険な行為だと知りつつ、その行為を行う者の自己責任自体は否定できないし、否定すべきでもないと思います。すべての者をあらゆるリスクから守ってやることなど誰にもできませんから。 

問題は、そうは言っても、無思慮な行動によって自ら招いた危機的な状況に陥った者を国家や社会は見捨ててよいのか?ということなんでしょうね。おそらく、それは、当人の自己責任とは別に、社会や国家はどの程度、たとえ自ら招いた結果であるとしても、苦境に陥った者を救助すべきか?という問題を惹起するんでしょうね。

国家や社会にもできることとできないことがありますから、あらゆる個人の総てのリスクを引き受けてやることはできないでしょう。かといって、すべてを自己責任だと言って何もしなければ統治の正統性を問われることになりますし、統治能力にも関わってくるでしょうから、それもできない。と、なると個人を国家や社会がどこまで、何から守るかなんてことは、選択的にならざるを得ないでしょう。重ねて申しますが、いかなる国家や社会と言えども国民をいかなる危難からも守り、救うことは能うことではありませんから。

誰の、どういう危難について、国家や社会が救助に向けて積極的に取り組みかどうかは、優れて、当該国家や社会を構成する人々の価値観によるところか大であって、危難に陥るに至った経緯や背景などと相互に反応して生み出される一般的な了解がものを言うのであって、絶対的に正しい答えは存在しないと思います。


今回のイスラム武装勢力からの邦人救出については、リベラル派はおおむね積極的かつ肯定的に捉えているように見受けられますが、ナショナリズムを高く掲げる論者の中には、地球上のいかなる場所であろうと、そして、いかなる相手からだろうと、力づくでも邦人を救出すぺし、と説く論者も存在します。

地球上のいかなる場所、いかなる相手からだろうと即時に自国民を救出することなど、圧倒的な軍事力を有するアメリカですら能うことではありませんから、現実的な考え方ではないでしょう。

では、外交交渉で、すべてが解決できるか?というと解決できる場合もあれば、できない場合もあるでしょう。邦人を捕らえた相手次第というところも大きいですし、相手の要求如何ということもあるでしょうから。いかなる代償を払ってでも邦人を取り戻す、なんてことになったら、イスラム武装勢力だけでなく、あらゆる非合法組織は日本人を狙って拉致誘拐を計画し、日本国政府から身の代金をふんだくろうとするでしょう。始めのうちは、それらの要求に従っていたとしても、再現なく、そういう要求に従うことができるのか?という問題もあるでしょう。

この問題に限らず、人間には、誰もが有無を言わせずに強制了解させられてしまうような絶対的に正しい答えなんてものは存在しないと思います。


誰もが同じ答えに達する必要はないし、また、そうするべきだとも思いません。

大切なことは、自分なりに考えることとともに、自分の考えだけを正しいと思うのではなく、自分とは違った意見や主張にも耳を傾けつつ、考えを深めていくことではないか?と思います。

戦場ジャーナリストのような人たちがまともな統治と治安が崩壊した地域で何が起きるのか?そういう状況で人間はどうなるのか?というような事実を収集することは、人間についての認識を深める上で極めて貴重な知見をもたらすことは否定できないでしょう。危険を犯してでも、危険地帯に踏み入り、通常人では知ることも見ることもできない事実を見聞きし、それを報道してくれる、という行為は、人類にとって非常に大きな貢献と言えるのは間違いないと思います。その行為の有益性、価値の高さに鑑みる時、国家や社会が能う限りの努力と犠牲をはらって、その者の救出に尽力することは正当化されるとは思います。

しかし、あらゆる者のいかなる行為の結果から生じたリスクのすべてに国家や社会が尻拭いをするべきか?というと懐疑的にならざるを得ません。そもそも、現実的にそんなことは不可能だし、現に、命の選抜は、それほどセンセーショナルな状況でないところで、粛々と行われている(生活困窮者を見捨てるとか)からです。経済的困窮を理由に、おそらく毎年、万を数えるオーダーで自殺者を出しておきながら、一方でセンセーショナルな話題の渦中の人物の生命については、重く扱う。そこに欺瞞と偽善を見ないわけにはいかないと思います。》


 平松さんは前掲のブログの中で、「村八分」に「基本的人権」を対置させて次のように書いておられます。


《では、「基本的人権」とは何でしょう?


【基本的人権】

人間が人間である以上,人間として当然もっている基本的な権利。日本国憲法は,思想・表現の自由などの自由権,生存権などの社会権,参政権,国・公共団体に対する賠償請求権などの受益権を基本的人権として保障している。基本権。

これを基本として民主主義があります。》


 平松さんは、西欧になにゆえ基本的人権という考え方が発生したのか?について、その歴史的経緯を踏まえ、それが西欧に特有のものであって、かならずしも普遍性、すなわち日本人をも問答無用で強制了解させるような威力を持たないことについて、以下のように書いておられます。


《基本的人権は、ヨーロッパで生まれた概念です。

ヨーロッパ大陸は、広大な平地で人の移動がしやすかった。

ゆえに戦争が起こりやすかったが、自然災害は南部以外ほとんどありません。

この条件下でキリスト教が発展拡大します。

その上で、帝国主義時代から「国民国家」へと発展した歴史があり、基本的人権は、国民国家誕生の契機となったフランス革命を経て生まれました。

人種の違い、階級の違い、愛着を持つ地域の違い、性別の違い、これらを乗り越える基本的価値

を探求した結果、生まれたものです。

当然、土台にはキリスト教があり、宗教を土台とした思想がある。


日本人の対人関係や社会に対する考え方は、宗教や思想より、国土条件の影響が強かった。

細長い列島の大部分を脊梁山脈が占め、可住地は僅かな盆地と、沿岸に開けた平地の山の麓くらいしかなかった。

古代には、平地の多くは湿地で足場が悪く、川の氾濫が頻繁に起こったため、住めない時代が長くありました。

全国に散在した可住地の人口はそれぞれ400人程度で、移動せず、その場で代々過ごした。

さらに、毎年いくつも襲来する台風、列島のほとんどの人が人生に一度体験する大地震。

欧米人の危機は別な人間たちがもたらしましたが、日本人の危機は自然がもたらします。

文句の持って行き場のない被害です。

狭く厳しい環境で暮らす小規模な共同体を、平和的かつ生産的にまとめるには、決められたルールに従う意識が何より重視されたのでしょう。

従わないものは、安定を乱す者として絶交、排除する。

まったく違う国土条件、歴史を持つ日本人が、基本的人権を理解できるとは思えません。》


 このくだりを読んで、わたは、(なるほどなぁ)と深く腑に落ちる思いがしました。おそらく、欧米人は、いかなる者の命の価値も平等に尊い。ゆえに、どんな思想・信条を抱く者であろうと、その者の身に危害が及ぼうとする時、意見や主張の違いは、しばらく置いて、その者を助けるべきだ、ということになるのではないか?と思います。欧米人のものを考える基準がそうである以上、例外は許されず、誰であろうとその基準が適用されるのが欧米的なやり方なのだろうと思います。それがつまり、欧米流の「基本的人権」であり「民主主義」ということなんでしょうね。


 たしかに、基本的人権という考え方は欧米から導入されたもので、日本古来のものでないことは、否定のしようのない事実と言ってよいと思います。

 
 ですから、日本において、あらゆる人間をそれが属する身分や出自を問わず等しく扱う、なんて考え方は、明治以前の時代には、あんまり一般的ではなかったと思います。江戸時代の東北地方に生まれた安藤昌益のような異端の思想家や浄土真宗のように宗教上の平等を別にすれば、その頃の日本人の命の重さは平等ではなかったと思います。


 しかし、欧米流の基本的人権のような考え方を日本人が持たなかったからといって、昔の日本人が人間として残酷に扱われたか?というとそうでもなくて、欧米で基本的人権と呼ばれるもののすべてではないにしろ、主要なもののいくつかは、昔の日本人だって尊重されていたこともまぎれもない事実だろうと思います。


 昔の日本を統治した武士たちは、武力を背景にその威信をもって秩序をあらしめたわけですが、少なくとも秩序と統治が曲がりなりにも成立しているところでは、武士が被統治階級の者の命や財物をむやみにかつ、理不尽に奪うようなことは堅く禁じられていたことは間違いないでしょう。昔の日本人は基本的人権という考え方を持っていなかったとはいえ、ルールがなかったわけではないんですね。ただし、そのルールとルールの適用は多分に状況依存的なものであって、いついかなる場合、いかなる者であるかを問わず適用される原理主義的なものとは異なっていたのだろうとは思いますが。平松さんは古来から日本人が従ってきたルールについて、次のように書いたおられます。



《「日本人はマナー意識が高い」と言われますが、ボクはまったくそう思わない。

「ルールに従う意識が高い」のだと思います。

ルールがなさそうなところや、ルールが解除される特別な時には、ゴミのポイ捨てや傍若無人な行為が起きてしまいます。

(渋谷 ハロウィーンでトラブル相次ぐ 軽トラ横転 痴漢 盗撮などを例示して)暴れた若者すべてが普段から暴れん坊で不道徳なのか? 違うでしょう。

「ハロウィーンだから、いつものルールは無視で良いよね」という空気(というルール)がそうさせたのではないか。

普段のルールを解除してる祭なのに、ルールに従おうとすれば「つまらないヤツ」とこれまた「村八分」が発動します(笑)


ハロウィーンは極端な例だが、禁則を破る人がいれば「自分もいいよね」と破ってしまうことがありますよね。意識が集団化して「空気」を醸成すれば社会的な動きになる。

このような意識は、「村八分」という言葉が生まれるずっと以前からあったはずです。


戦前は戦争への邁進に、戦後は平和主義への邁進へとひっくり返ったが、根は一緒です。

どちらの場合も、異論を言えば「村八分」だ。


意識する・しないにかかわらず、日本人の根っこの根っこに強く存在するのが

「村八分」意識なのだと思う。


だから、悪いとか、欧米より劣っていると言いたいわけではありません。


ヨーロッパ大陸の人々とは環境が違うのですから、考え方も違っていて当然でしょう。

自由や個人の権利を尊重する欧米の意識。

基本的人権と民主主義には、権利を勝ち取る意識の延長に戦争という負の側面がある。

「和」の意識、「絆(きづな)」の意識、「丸くおさめる」意識。

勝ち取るのではなく、分かち合う日本人の道徳意識には「村八分」という負の側面があるのです。


日本人は、誰でも「村八分」にあう可能性があり、また、誰かを「村八分」にする可能性があるのだ。

そう自覚することなしに、「和」も「絆」も「丸くおさめる」ことも不可能でしょう。

欧米人のように基本的人権や民主主義を理解できている、と思うのが間違いの元なのです。

「基本的人権を理解できているという誤解」の弊害は

社会問題だけでなく、経済問題、教育問題、社会保障問題、憲法問題、おそよ日本の全て問題の根っこにあるのでしょう。

足らないのは、主体性ですね。

できていないことを自覚する、それが、できるようになる第一歩 です。》


 かつて、日本の論壇で大いに健筆を振るった故山本七平さんのご著作に『空気の研究』というのがありました。


 事実をもとに精密な論理を積み重ねて、ある結論なり決断に至るのではなく、集団として、ばくぜんと抱く半ば無意識的な集合意識によって日本人は動かされやすい、というのが山本さんのご主張で、施光恒(せ てるひさ)九州大学准教授は、『日本人は本当に流されやすいのか?』と題するご著作の中で、日本人はかならずしも流されやすいわけではない、と論じておられますが、ごく一部の例外的な、きわめて聡明で強靭な知性の持ち主なら、あるいはそうかもしれませんが、総体として、まことに残念ながら日本人は「空気」のようなものにはきわめて流されやすい、と言わざるを得ないと思います。要するに、自分が属する意見や主張、価値観を共有する集団の中で、ある意見や主張が大勢を占める時、それに引きずられないでいることは非常に難しい、ということは否定しようがないと思います。(ま、かならずしも日本人だけでなく、欧米人だってそういう弱さを多分に持っているとは思いますけどね)。


 解剖学者で『バカの壁』というベストセラーの著者でもある養老孟司さんは、『あなたの脳にはクセがある━「都市主義」の限界』という著作の中で、人間は誰もが、固有の思考のクセをもっていて、どんなに客観的で公正を心がけたとしても、思考の偏りは免れ難い、てなことを書いておられますが、たぶん、そのご指摘は間違ってはいないと思います。


 どんなに正しいと思える主張や意見でも、絶対の正しさを保証できない、というのが保守主義というものの根幹である以上、避けるべきは、自己絶対化なのではないか?と思ったりするわけです。


 そして、自分の思考のクセや弱点を知ることは、どうしても偏りがちになる思考を修正するのに役立つのではないか?と思います。平松さんは、

《できていないことを自覚する、それが、できるようになる第一歩 です。》

という文章で、示唆に富む秀逸な文章を締めくくっておられますが、自己絶対化に陥らないためには、たとえば、古代ギリシャの哲人ソクラテスが言ったとされる「無知の自覚」にも通じるような厳しい自己認識を必要とするのではないか?と思います。


 基本的人権や民主主義というものの核心部分が普通の一般の日本人には容易に理解しがたいとして、では、基本的人権や民主主義なんてものは理解しなくてよいのか?というとそうではないだろうと思います。


 たとえば、評論家の紀田順一郎さんがお書きになられた「東京の下層社会」という本には、文明開花して間もないころから、大正、昭和にかけて、東京や大阪などの大都市に絶望的貧困層によって、目をそむけ、鼻をふさぎたくなるような不潔でおぞましいスラム街か形成され、そこで暮らすことを余儀なくされた絶望的貧困層の悲哀と苦渋をこれでもか、と描写した当時のルポルタージュが引用されています。


 基本的人権という観念がなければ、人間、それも同胞である自国民をどれほど絶望的な貧困と不潔な環境に放置してもなんらの心の痛みも感じず、救済措置を取ろうとしなくても平然としていられる、ということを同書は告発していますが、戦後の日本において、基本的人権の尊重という観念が浸透したことと、絶望的な貧困やスラム街の解消とは密接な関係があったと思います。基本的人権という考え方は、正味のところで一般の普通の日本人にはわかりにくいとしても、有用で有益であったことは間違いないと思います。そして、基本的人権の尊重ということと民主主義とは表裏一体をなすものであったことも否定できないと思います。だから、「基本的人権や民主主義なんてよくわからない」からと知らないで済ませるのではなく、基本的人権や民主主義とはどういうことなのか?についてよくわからないからこそ、わかろうと務めることが大切なんだろうと思います。



 わかった気にならない。絶えず自説の妥当性に批判的検討を加え続け、これでよしとしない、ということは、保守思想の核心をなす考え方だろうと思います。ゆえに、他者との対話や共存を拒む原理主義のようなものを斥けざるを得ないのだろうと思います。 

 読者の皆さんにおかれましては、いかがお思いになられますでしょうか?