マインド・コントロールの恐怖 | ソウルメイトの思想

ソウルメイトの思想

唯物論に対する懐疑と唯物論がもたらす虚無的な人間観、生命観を批判します。また、唯物論に根ざした物質主義的思想である新自由主義やグローバリズムに批判を加えます。人間として生を享桁異の意味、生きることの意味を歴史や政治・経済、思想・哲学、など広範二論じます。


NHKは、未解決事件・追跡プロジェクトと称して「オウム真理教17年目の真実」と題するドキュメンタリー&再現ドラマ を2012年5月26日に、また、「オウムVS警察 知られざる攻防」と題する続編を翌日の5月27日に、さらにそれらの続編となる「オウム真理教 地下鉄サリン事件」を2015年3月20日に放送しました。ご覧になられた方も少なくないと思います。

わたしは、「オウム真理教
」の教祖である麻原 彰晃・松本智津夫を直に見たことはありません。が、テレビ朝日のサンデー・プロジェクトという番組で、その頃ブームとなっていた新・新宗教を特集するコーナーに登場したオウムを肩に乗せた麻原を見た時、思いっきりいかがわしさとかうさんくささを感じてしまったんですね。わたしはかねてより、ユング派の深層心理学とかその隣接分野である宗教とか精神世界、スピリチュアルなんかに関心をもっていて、人間の心の奥底にある高次の意識、「神的なもの」に触れたことのある人物なら感じさせるであろうすがすがしさとか清らかさをまったく感じなかったんですね。それどころか、麻原彰晃・松本智津夫から漂ってくるのは、濁った、低次の欲望、生臭い俗臭しか感じませでした。そして、「こんなやつを教祖として崇めるようなやつがいるなんて信じられんな」というのがその時の正直な感想でした。

上記のNHKのドキュメンタリー&再現ドラマを見ていてその頃感じた疑問が再び頭をもたげてきたのを覚えいます。「普通の人なら、簡単に見破るに違いないのに、なぜ、ああも多くの人たちが正体を見抜けなかったのだろう?」と思ったんでありますね。

で、いかがわしいとされる宗教に一時はハマったことのある人で、そこから脱出することに成功した人の体験を知りたいと思い、そのような人たちがお書きになった本を読んでみることにしました。

最初に手に取ったのは、オウム真理教から脱会した元信者の手記でしたが、今ひとつ怪しげな宗教にはまる人の心のメカニズムのようなものが判然としなかったので、同じように信者の人生や生活を台無しにしてしまうことでよく知られる「世界基督教統一神霊協会」通称、「統一協会」の脱会者の手記を読んでみることにしました。

南哲史さんという元統一協会信者がお書きになられた「マインド・コントロールされていた私ー元統一協会脱会者の手記」という本とやはり、米国人で元統一協会信者であったスティーヴン・ハッサンが書いた「マインド・コントロールの恐怖」という本を読んだことは実り多いものとなりました。そして、社会心理学者の西田公昭さんの著作、「マインド・コントロールとは何か」は、マインド・コントロールされるとは、どういうことか、その心理状態や心理機制を理解する上で大きな助けになりました。

統一協会の教祖である文鮮明氏は、自らをイエス=キリストの再来、メシアであると自称しました。彼をわたしは、麻原彰晃・松本智津夫同様、直に見たことはありませんが、写真等を見る限り麻原同様、神聖なもの、清らかなものを一切感じさせない人物でした。教団をたちあけた初期の頃は、女性信者にたいして、原罪を清めるために自分と性交渉をもつことを求めたり、“メシアである” 自分は、韓国人として生まれたのだから、日本人はことのほか自分に奉仕する義務があると称して壺などを法外な値段で日本人に売りつける、いわゆる「霊感商法」などという犯罪行為を信者に強要したりして、普通ならそのいかがわしさ、怪しさに気づきそうなものですが、それに気づくことのできない精神的、心理的状態にされてしまうこと、それこそがマインド・コントロールなわけですね。

マインド・コントロールについて正確にかつ詳細に知りたいと思われる方は、ぜひ、西田公昭さんの著作なんかをお読みになっていただきたいと思いますが、わたしなりにごくあらっぽく説明するとするなら、ある信念体系、論理を唯一絶対に正しいと思い込ませてしまうことだ、と言っていいと思います。健常者の健康な精神とか心理状態だとなかなかそういうことにはなりませんが、さまざまな心理学的手法を駆使して、そういう心の状態を作り出すことがマインド・コントロールだ、と言ってもいいかもしれません。そして、マインド・コントロールされた状態にある人はある特定の前提や独特の論理形式に従うことに同意してしまうと、一挙にマインド・コントロールを施す者が望む結論まで論理強制的に導かれてしまうのです。たとえば、1+1は2になる、とか1×2は2になる、というのは、そういう規則にしてあるだけで、ユークリッド幾何学に基づく数学の論理規則ではそうであっても、非ユークリッド幾何学に基づく数学の体系では、かならずもそうなるとはかぎりません。ユークリッド幾何学に基づく論理規則に同意するからこそ、数学的な論理に逆らえないで、望もうが望むまいが強制了解されてしまうだけのことなんですね。マインド・コントロールされた者もいくつかかの前提条件と独特の論理規則に従うよう条件づけられているので、教祖や教団が望むように考え、行動してしまうんですね。マインド・コントロールされている者に基本的に思考や行動の自由はありません。

ところで、マインド・コントロールというのは、なにも いかがわしい宗教だけが用いるものではなく、スティーヴン・ハッサンが警告している通り、政治団体や経済行為をもっぱらとするような集団においてもしばしば利用されますし、他人によって強制的にあるいは、巧妙にマインド・コントロールされてしまうだけでなく、自分で自発的に自らの意思でそのような精神的、心理的状態に自分を追い込んでしまうことも多いありうることでしょう。

その好例として現代主流る生物学であるダーウィニズムをあげることができる、とわたしは思います。ご興味のある方は、マイケル・デントンが書いた「反進化論」やマイケル・J・ベーエが書いた「ダーウィンのブラック・ボックス」、牧野尚彦さんがお書きになられた「ダーウィンよ さようなら」なんかをお読みになられるとよいと思いますが、今回取り上げたいのは、現代主流派経済学である新古典派経済学およびその派生物である「リフレ派」とか新自由主義と呼ばれるような仮説理論についてです。

科学評論家の竹内薫さんによれば、いかなる科学理論も絶対に正しいことを主張できません。なぜなら、人間には、認識能力や思考能力に固有の限界があって、すべてのことを余すところなく、正確無比に把握・認識して、誤りなく結論を下すことができないからです。人間には、どうしても判らないこと、知らないことが山ほどあり、また、間違いを犯すのは、人間の常だからです。したがって、いかなる科学理論も仮説たることを免れません。どんなに正しいと思える科学理論であっても、いつ、事実にょって反証されてしまうかわかったものではありません。そして、主流派経済学が、もし、自らを科学の一分野であると主張するなら、その理論体系は仮説にとどまらざるを得ません。絶対に正しい、とは主張できるはずがないんですね。

にもかかわらず、もし、現代主流派経済学が自らの理論を絶対に正しい、と主張するのであれば、それは、もはや科学ではなく、宗教の類になってしまうでしょう。そして、その場合、その信奉者がマインド・コントロールという精神的・心理的状態におかれている可能性はきわめて高いと言わざるを得ないと思います。

現在主流派とされる経済がどのような欠陥をもっているのか興味のある方は、青木泰樹さんがお書きになられて「経済学とはなんだろうか」や森嶋道夫さんがお書きになられた「思想ときての近代経済学」なんかをお読みになってご覧になることをおすすめします。

人間のさまざまな営みは、人間を幸福にすることもあれば、不幸にすることもある、とわたしは思います。そして、人間の思考を強制的に、あるいは、半ば自発的にであれ、特定の強制了解システムにはめ込んでしまうようなものは、人間を幸福にしないと思います。「マインド・コントロールの恐怖」は、いつも他人の身の上に起きるとは、限りません。もしかしたら、いま、まさにそこにある危機なのかもしれないことを時々は思い出したほうがいいかもしれません