言語と数字の違いは、

 

 

数字は、主観の入り込む余地が

 

 

言葉と比較して圧倒的に少ない。

 

 

1+1=2これを3と捻じ曲げる人はあまりいないでしょう。

 

 

言葉だと人によって認識が違ったりするが、

 

 

数字は人間が使う言葉の中で、

 

 

一番概念が共有できる言語です。

 

 

人間の神の受け取り方は千差万別ですが、

 

 

神の側から発信する真実は一つです。

 

 

それを受け取る人間側が、

 

 

これが正しい神だと主張しても、

 

 

それを決めているのは神であり、

 

 

正解は一つです。

 

 

もっと言うと、

 

 

神としての力が使える繋がり方も、

 

 

概念としては一つです。

 

 

見え方は色々あっても、

 

 

プラットフォームは一つです。

 

 

「いや、俺は力が使えるよ」と言っても、

 

 

正しく繋がったら、

 

 

もっと大きな力が使えるでしょう。

 

 

ただそれを知らないだけです。

 

 

社会の中で言うと、

 

 

駄目な場合の『我』です。

 

 

自分が一番と思っていても、

 

 

大海を知らない我です。

 

 

大海を突き抜ける『我』は、

 

 

大抵神格から為されています。

 

 

そんな時、腹があります。

 

 

中心があるということです。

 

 

神道では、中今と言います。

 

 

意識は、

 

 

過去・現在・未来と自由に向けられます。

 

 

しかし身体を通しての認識は、

 

 

常に今だけです。

 

 

よって行動・体験は、

 

 

今しかできません。

 

 

だから意識と身体の認識を

 

 

今で整合しなければいけないのです。

 

 

実は、この意識を今と言う固定から、

 

 

過去・未来と自由に意識を向けられるのは

 

 

人間だけの機能です。

 

 

これにより自己創造の設計図を描き、

 

 

自由にタイムラインを行き来することを可能にしています。

 

 

しかしその本来の機能を知らないために、

 

 

感情によって意識のコントロールを奪われると、

 

 

過去を繰り返すだけの人生になってしまう場合もあります。

 

 

長所も使い方を知らなければ、

 

 

宝の持ち腐れとして短所になるだけです。

 

 

神の世界に暮らすのに、

 

 

神の言語を理解できず、

 

 

神のルールを知りえない。

 

 

これでは、『我』としての長所が発揮されません。

 

 

神の一部として、『我』が内なる中心から繋がりを確立する時、

 

 

全体が創造発展するための我となり、

 

 

全体のおかげで創造発展できる我となります。

 

 

そんな時、言語が全体と我のために働き、

 

 

ルールが全体と我のために機能します。