ほんち | ミナミのブログ

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のんびり、、まったり

この言葉を知っている人は、横浜の中区、南区、川崎市、もしくは千葉県

富津で昭和3,40年代に子ども時代を過ごした人だと思う

 

ほんちとは蠅とり蜘蛛のこと

 

生け垣や藪に生息し、捕まえてきて、マッチ箱などに入れて戦わせるという

単純なゲームだ 勝ったほうはババととなる

 

今港の見える公園と呼ばれる場所は、嘗てイギリス軍の駐屯地であり

その後、疫病が流行った頃には隔離するための避病院が建てられていたとか

 

そこに行くためには

新山下の大通りからバンドホテルの脇を抜け

少年鑑別所、税関の官舎の裏手を通り

崩れそうな階段を数段上がると夏でも木々に覆われた小径に出るので

その道を左に上がって行く

 

その道沿いの右側は当時はフランス政府の管理下にあり

フランス山と呼ばれフランス領事の邸宅があった場所が

薔薇線で囲われていた

領事館自体は中村川沿いに建てられていたが昭和40年代に移転した

記述によるとフランス山は昭和46年までフランス政府のものだったとか

 

その薔薇線を少年たちは潜り抜け、昭和22年に日本人により放火されて

崩れたフランス領事の邸宅の跡を秘密基地として、ほんちや蟻地獄の主や

たまにヤマカガシなどを捕まえて遊んでいた

有体に言えば密入国になるが、管理する人はほとんど来ないから

上級生の子達の恰好の遊び場になっていた

 

ただ、学校では厳しく禁止されていたし

捕まると刑務所に入れられるなんて話もあったりしたが

 

遊び疲れるとほんちだけを連れて帰り、駄菓子屋でマッチ箱ほどのケースに

ガラスがはめられたほんち用のリングを買ってきて戦わせる

それが買えない子はマッチ箱をリングにする

 

ほんちを捕まえるためには鍔のある野球帽が欠かせない

 

このことを昨日、某サイトで久しぶりに思い出した

理由は、そのサイトを利用しているシンガポールの人が子どもの頃の思い出として

動画にあげたのが、まさにそのほんちという蜘蛛の戦いの様子だったのだ

 

その人は1980年代に少年期を過ごしているようだった

 

ほんちについて、私が幼い頃にお年寄りだった人に聞くと

船員によって持ち込まれた遊びとのことだった

 

日本にほんちが流行り出したのは大正時代とされているが

私が幼い頃のお年寄りは大正以前の明治やその前の年代

 

それを思うと、ほんちを運んできたのは遠いシンガポールやその近辺の国々から

だったのでは、と、そんな思いが濃くなってくる

 

そして願わくば、いつか日本のほんち保存協会の人たちとシンガポールの蜘蛛との

国際試合が有ったらな、なんてそんなことを思っている

 

 

薔薇線で囲まれたフランス山は元フランス政府の管理下に相応しく

赤い椿や紫陽花や桜の花が咲く、美しい場所でもあった

 

鬱蒼とした木々の中を上っていくと

中腹には煉瓦で積み上げられた階段に

門柱と同様に煉瓦で作られたテラスの跡

門柱の片側には淡い紅色の八重桜が咲いて

 

昭和46年に日本政府の元に還って以降、高校の演劇部の友人が

シラノ・ド・ベルジュラックのシラノを演じる練習をするために

ロクサーヌの役をさせられて、その階段で友人の演じるシラノの恋の歌を

何度か聞かされたが、その一、二年後に行くと

その場所はコンクリートで固められた急な階段になり

まるでロクサーヌのドレスのように淡いピンクの八重桜の行方は

分からなくなっていた

 

それから十年以上したある日、演劇部の後輩でロクサーヌを演じた子が

テレビに出ていると友人から電話があったが

テレビの中の彼女があのレンガ積みの階段の八重桜の前でロクサーヌを演じたら

さぞかし美しかったことだろうなと思った

 

あまり言いたくないが、日本の役所の人は美的感覚に乏しいのだろうかと

そう思えてしまう

 

横浜といえば根岸の競馬場跡も近々日本に返還されるという話だが

出来れば遺構として全てをあのまま保存して欲しいと切に思う