昨年のことになりますが,令和3年12月6日に,東京地裁で,自由面会交流権訴訟の期日がありました。同期日では,被告(国)の主張書面が陳述(主張)され,次回期日(令和4年3月7日午後2時803号法廷)までに,原告側で反論の主張書面を出す予定となりました。

 

 

 

現在,その原告側の反論の主張書面の作成中です。その中で1つ思ったことがあります。それは,「今まで,日本では面会交流権が基本的人権としての扱いを受けてこなかったのは,言葉の問題もあるのではないか」ということです。

 

 

 

例えば,井上武史教授の論文,「別居後の親子の面会交流権と憲法:面会交流立法不作為違憲訴訟の検討」(甲 )の310-311頁には,以下の記載がされています。

 

 

 

井上武史「別居後の親子の面会交流権と憲法:面会交流立法不作為違憲訴訟の検討」310-313頁

 

 

 

「憲法学説から,「面会交流権は,実現内容・方法に具体的な形成が必要なだけで,例えば環境権のように具体的に何を求める権利なのかが明確ではないというものではない」と指摘されるように,面会交流権の主体や内容については,地裁判決が言うような「議論が一義的に定まっているとは評価し難い」というものではない。

 

 

 

 

比較法的に見ても,離婚後に別居親が子と会って交流できることは,諸外国では訪問権(Visitation rights)や訪問・宿泊権と呼ばれ,すでに別居親の権利として確立しているといえる。
 

 

 

 

その理由は,父母の双方と交流を維持することが,子の利益になると考えられるからである。例えばフランスでは,子が双方の親と人格的関係を維持することは子の利益に適うというという理念が離婚家庭の子どもの問題に関わる人々の間で広く共有されるようになったからだとされる。

 

 

 

 

面会交流が権利として確立すれば,面会交流は実施されることが原則となり,子の利益にならにあというような例外的な場合に限り不実施という法的判断が行われる。
 

 

 

 

 

の点が妥当かどうかは,離婚後の親子関係のあり方とも関わる。離婚後の父母の一方のみが親権者となる現行法上の離婚後単独親権制度のもとでは,非親権者・非監護親となった親は子の監護養育に関わることが法的に許されていない。そこで,面会交流は監護権を有しない別居親にとって子と交流できる唯一の手段となる。
 

 

 

 

 

それにもかかわらず,現行制度は面会交流を別居親の権利として認めていない。つまり,実体法上,別居親は子と会うことすらも正当に要求できない。このような現行制度は,離婚後の別居親と子との人格的関係は一切断絶されるべきという家族観によれば理解可能であるかもしれないが,民法はそのような家族観に基づいているのだろうか。そうだとして憲法や人権の理念に適合するのだろうか。

 

 

 

 

 

もしそうでないのであれば,子と面会交流できる権利は別居親の最低限の要求として,法律で明確に位置付けられることが必要である。」

 

 

 

 

 

この井上教授の論文を拝読して思ったのは,「面会交流権」と「訪問権」の言葉の相違です。外国では基本的人権の地位が与えられている権利について,あえて日本では異なる日本語を当てはめてしまったために,諸外国における権利の性質が正しく日本に伝わっていないのではないか,ということです。

 

 

 

 

 

例えば,日本で「自由」と言えば「わがまま奔放な」という意味を持つ言葉として使われているのではないでしょうか。でも,「自由」の英語である「liberty」には,「わがまま奔放な」という意味はなく,より崇高な理念を表す言葉として用いられているのです。そのような言葉の相違が生じたのは,「liberty」が初めて日本で訳された際,その崇高な理念を表現できる日本語が存在しないため,あえて「自由」と訳された結果なのです。

 

 

 

 

 

すると,面会交流権と訪問権も同じではないかと思います。言葉の相違は,権利が人権であることを否定しないはずです。なぜならば,基本的人権とは,人が人として生まれたことで当然に有する権利であり,国家が初めて与えたものでも,憲法が初めて与えたものでもないからです。権利の性質や,権利を支えているスピリットこそが重要なのであって,国が権利に与えた「言葉」は,権利が人権であることを否定しないはずだと思います。

 

 

 

 

 

アメリカでオバマ大統領の就任式で,大統領就任のために必要とされていたため,アメリカ最高裁長官が憲法を読むのに続いて,オバマ大統領が憲法を読む場面がありました。そして,最高裁長官が憲法を読み間違えてしまったために,オバマ大統領も間違えて読んだ一節があったのです。

 

 

 

 

 

そのことが,後でオバマ大統領のアメリカ大統領としての地位について法的な問題が生じると大変だ,として,式典終了後に,最高裁長官とオバマ大統領が二人きりで,再度憲法を読んだ,というニュースを拝見したことがあります。そしてそのニュースでは,憲法学者の意見として,「そのような憲法の再度の読み上げは不要だと思う」との意見が述べられていました。

 

 

 

 

 

そのニュースを拝見した私も,憲法学者のご意見と同じように,憲法の再度の読み上げは不要だと思いました。アメリカ大統領になるために必要であるのは,憲法の形式的な,表面における言葉そのものではなく,その背後で憲法を支えている「スピリット」を守る意志が表明されていれば足りると考えるからです。