昨年の平成27年12月16日に,私が担当させていただいていた女性の再婚禁止期間違憲訴訟について,最高裁判所大法廷が違憲判決を出したことは,このブログでもお話したところです。
その事件につき,平成27年11月4日に行われた大法廷の弁論を傍聴に来られた方のご感想が法律雑誌に掲載されており,とても興味深く感じましたので,ご紹介いたします(「最高裁判所大法廷での再婚禁止期間と夫婦同氏強制制度に関する2つの訴訟の弁論を傍聴して」『法学セミナー』2016年1月号(日本評論社,2015年)1頁より)。
「午前の法廷(注:再婚禁止期間違憲訴訟の最高裁判所大法廷)では,上告人側の弁護士は1名だけ,これに対して,被上告人の国側は10名が着席していた。
私の隣に座った学生は,『不公平ではないのですか』と感想を述べたが,国家権力を相手に裁判を挑むということは,あらゆる資源を握っている相手と戦う容易ならざる企てであるということを,このことは目に見える形ではっきりと示している。」
この記事は,女性の再婚禁止期間違憲訴訟の最高裁判所大法廷での弁論を傍聴してくださった大学の先生が,同行された教え子の法学部の学生の方とご覧になった感想を書かれたものです。
記事を書かれたのは大学の先生ですが,同行された法学部の学生の方が,大法廷の上告人の席に,代理人弁護士であった私1人だけ座り,被上告人(国)の席には,10名が座っていたのをご覧になって,「不公平ではないか」と思い,それを先生に話された様子が書かれています。
確かに,1人と10人だと,一見不公平に見えるのかもしれません。でも裁判では,決して法廷で綱引きをするわけではないのです。
裁判で大切なのは,人の数ではなく,さらに申すと資源の多さでもなく,感覚なのです。
憲法そのものは,紙に書かれた活字にすぎません。その活字である憲法に,時代が求める,そして社会が求める正義観・公平観を法律家が感じて,それを意味として与えることで,憲法が動き出すのです。
つまり裁判の結果とは,その目には見えない正義観・公平観をいかに適切に感じることができるのか,それを最も社会が求める意味にして活字である憲法に与えることができるのかが問われる場であります。それは,代理人の数が多ければより良いものが与えられるというものでは決してないのです。
どんなに大人数で絵を描いても,それが人々の心を掴むとは限りません。それに対して,たった1人が描いたものでも,多くの人々の心を掴む絵はあるのです。
たった1人の市民でも,裁判所で論理と証拠を積み重ねることで国を変えることができる。それが法の支配です。その理念が発現されたのが,昨年出された最高裁判所大法廷で違憲判決だったように感じています。