「悪法も法なのか」という命題は,ソクラテスが「悪法」により死に追いやられた古代ギリシャの時代から論議されてきた,古典的法哲学の問題です。
第二次世界大戦後の西ドイツに,著名な法学者であるラートブルフがいました。彼は,「法実証主義」という立場の代表的な存在です。
「法実証主義」とは,「実証主義」を法学にも及ぼそうとする立場でありまして,法律のみが法学の対象であり,それ以外の社会意識や倫理など,いわば法律として紙に書かれていない存在は,一切考慮すべきではない,という立場なのです。
そんなラートブルフが直面した問題が,ナチスドイツ時代の悪法問題(ナチス立法の戦後処理問題)でした。
道徳的に著しい悪を内容とする法であっても,それが法という形式を備えている限り,つまり紙に書かれた活字としては,その外の法律と何等変わらないことになります。
では,そうした法も,「法」である以上,拘束力,社会的妥当性を肯定されるのか,それともそれを否定されるのか。
第二次世界大戦中にドイツでナチス立法に従って行われた行為を,ナチス体制崩壊後に,どのように裁くべきかが大きな問題となったのです。
この問題を受けて,ラートブルフはそれまで採用していた「法実証主義」の立場を変更したのです。ラートブルフは,①正義との矛盾が堪えがたい程度にまで達している法律は,「制定法の形をとった不法」であり,法としての妥当性を欠くこと,②それは「悪法」であり,「悪法」は正義に道を譲らなければならないこと,③結果として,正義の核心をなす平等の理念を否定した法律は,「法としての資格」を失うのだ,と主張したのです。
それまで,「法実証主義」の立場をかたくなに守り,いわば紙に書かれた活字としての法律のみを考慮すべきであり,その余の,目には見えない「正義」や「公平」,さらにはその実現を求める社会意識など考慮しなくてもよい,とされてきたラートブルフの立場の変更は,当時の西ドイツの法学会に大きな影響を与えました(それは「自然法のルネッサンス」との表現で語られていることです)。
冷戦終了後,東西統一ドイツとなった現在のドイツは,再び旧東ドイツ政権下で行われてきた旧東ドイツの法律に基づく非人道的な行為を統一ドイツにおける法秩序において,どう裁くべきか,という大きな問題を抱えたのですが,その解決において裁判所は,「ラートブルフの定式」を引用することが多くあります。
「ラートブルフの定式」は,私達に,紙に書かれた法律そのものが大切なのではなく,その法律に,何か目には見えない存在が影響を与えていることを教えてくれていると思います。
それがきっと,ラートブルフも言及された「正義」「公平」であり,さらに申すと,法律を用いてそれらを実現したいと願う社会意識なのだと思います。
「紙に書かれた法律」そのものが,社会の目的では決してないのです。大切なものは,それを支えている,目には見えない存在なのです。21世紀の現代でも引用されている「ラートブルフの定式」は,私達にそのことを教えてくれていると思います。