私は,今年で弁護士になってちょうど10年になります。10年間で色々な方のご相談をおうかがいして参りましたが,その中で「法律の規定と,日本の社会の意識とが齟齬している」と感じることがしばしばあります。



その代表が,未成年者の不法行為と親権者の責任の問題なのです。例えば,次の事例を皆さんはどのように思われますでしょうか。



高校生1年生のA君(16歳)が,自宅から高校まで自転車で通学していました。A君は,自宅を出るのが少し遅かったことから,遅刻するのではないか,と慌てて,つい赤信号を無視して,道路を渡ろうとしました。すると,そこにBさんが運転する車が来て,A君の自転車とBさんの車が衝突し,Bさんの車には修理が必要な傷ができてしまったのです。



この交通事故で,Bさんは過失は全くなく,A君の赤信号無視がその原因であったとします。つまりA君は過失100%です。



A君には,親権者として父Cと母Dがいます。Bさんは,車の修理代金を,親権者であるCさんとDさんに請求できるでしょうか。






感覚的に考えていただくと,「Bさんは,A君の親権者であるCさんとDさんに車の修理代金を請求できる」と思われた方が多いのではないでしょうか。でも,民法の規定から申すと,正解は「できない」なのです(Bさんは車の修理代金をA君にしか請求できないのです)。



親権者の役割である,未成年者子の重要事を代わりに決めることはもちろん未成年者が成人になるまで役割として続くのですが,こと不法行為の責任は別である,とするのが民法の規定なのです。



民法は,まず712条として「未成年者は,他人に損害を加えた場合において,自己の行為の責任を弁識するに足りる知能を備えていなかったときは,その行為について賠償の責任を負わない」という規定を設けています。



それはつまり,未成年者の内の「自己の行為の責任を弁識するに足りる知能を備えていない」者だけ,不法行為責任を負わない,という意味でありまして,逆に申すと,「自己の行為の責任を弁識するに足りる知能を備えている」者は,未成年者であっても,不法行為責任を負うのです。判例はその「責任を弁識するに足りる知能」とは,だいたい13歳くらい(中学生くらい)を念頭に置いている,と言われています。



つまり,民法において親権者が未成年者の行った不法行為の責任を負うのは,未成年者が「自己の行為の責任を弁識するに足りる知能を備えていない」場合(小学生くらいまで)の例外的な場合だけなのです。民法714条1項はその場合について,「前2条の規定により責任無能力者がその責任を負わない場合において,その責任無能力者を監督する法定の義務を負う者は,その責任無能力者が第三者に加えた損害を賠償する責任を負う」と規定しているのです。





このようなお話を,よく似た事件のご相談に来られた方々にお話すると,皆さん驚かれるのですね。その意味で日本の社会では「未成年者の起こした不法行為の責任も,親権者は負って当然である」という社会意識が存在するのかもしれません。



元々,日本の民法はドイツ法を母法としています(さらに申すと,そのドイツ法は遙か昔のローマ法を母法としているのです)。その狩猟文化のヨーロッパで育まれた規範をまとめた民法と,和を重んじる稲作文化の日本の社会の意識とが少し食い違っている,とも言えるのかもしれませんね。



でも実は,そのドイツから輸入された民法に対して,日本の社会意識が影響を与えたと思われる判例があるのです。それが,最高裁判所昭和49年3月22日判決です。



同判例は,既に「自己の行為の責任を弁識するに足りる知能を備えている」とされる年齢(行為当時15歳11カ月)であった未成年者が行った強盗殺人事件について,亡くなられた方の遺族から起こされた殺人犯人の親権者に対する損害賠償請求を認容したのです。



同判例は次のように判示しています。「未成年者が責任能力を有する場合であっても,監獄義務者の義務違反と未成年者の不法行為によって生じた結果との間に相当因果関係が認められるときは,監督義務者につき民法709条(注:不法行為の原則規定です。民法709条「故意又は過失によって他人の権利又は法律上保護される利益を侵害した者は,これによって生じた損害を賠償する責任を負う。」)に基づく不法行為が成立する。民法714条はこのような解釈の妨げとはならない。」



この判例はとても興味深いものであります。なぜならば,形式的に申すと,民法が親権者の責任をあえて否定しているはずの場合に,解釈論を用いてその責任を肯定したからです。



その判例の目的は容易に想像いていただけると思います。強盗殺人事件の被害者が,民法において責任主体とされている未成年者に損害賠償請求をしても,そもそもそれを支払える資力がありません。この事件では,犯罪を行った未成年者がとても長い期間受刑するはずですから,その意味でも民法の規定を形式的に当てはめるだけでは,被害者は浮かばれなくなるわけです。



そこで最高裁判所は,解釈を用いて,監督者に監督義務違反が認められ,その義務違反と殺害行為との間に相当因果関係が認められれば,民法709条の不法行為の一般規定により,親権者は不法行為責任を負うのだ,としたのですね。



それはいわば,ドイツから輸入された民法に対して,日本の社会に存在する正義観,公平感,さらに申すと「犯罪被害者を救いたい」という思いが働き,それらがいわば社会的因子となって,活字としての民法に,異なる意味が与えられたと言えるのかもしれませんね。



活字としての法律の存在そのものが私達の社会の目的ではなく,私達の社会の目的は正義や公平を実現することにあります。法律はその目的を実現するための手段にすぎないのです。そのことを思い起こさせてくれる最高裁判所の判決のように感じています。