アメリカ連邦最高裁判所は,9人の裁判官で構成されています。その指名は,大統領が行うのです。



1960年代のアメリカ連邦最高裁判所の裁判長を務めたのが,アール・ウォレン主席判事でした。公民権,刑事被疑者の権利などの分野について,進歩的な判決を次々に生んでいったのです。当時の最高裁判所は「ウォレン・コート」と呼ばれ,その判決の斬新さは,今に至るまで語り継がれています。



そのウォレン主席判事が辞任したのが,1968年のことです。そしてその年,選挙で大統領に選ばれたのがニクソン大統領でした。



実はニクソン大統領は,直接選挙で国民に選ばれていないアメリカ連邦最高裁判所の裁判官が,進歩的・斬新的な解釈を行うことを,快く思っていなかったのです。ニクソン大統領は,1968年に大統領に選ばれた際の選挙では,「法と秩序の回復」を訴えて,当選したのです。



大統領就任後,ニクソン大統領は,ソ連との外交,中国訪問,ベトナム和平の実現などの政策を,強引に実施します。さらには,1960年代に「ウォレン・コート」が次々と生み出した斬新な判断を覆すために,保守的な,ある意味自分の持つ価値観に近い人を,アメリカ連邦最高裁の裁判官へと任命するようになります。9人の裁判官の内,4名がニクソン大統領により新しく任命されたのでした。



その4名の自ら任命した「保守的な」アメリカ連邦最高裁裁判官により,法と秩序を取り戻そうとしたニクソン大統領。その彼を,ウォーターゲート事件が襲います。ポトマック川に面するウォーターゲート・ビルの民主党全国委員会の事務所に押し入った賊がつかまり,盗聴装置が仕掛けられているのが見つかったのです。1972年6月のことです。



住居侵入の容疑者の裁判と,ワシントンポスト新聞の若手記者などの果敢な取材を通して,この不法侵入事件にホワイトハウスが関与した疑いが高まりました。1973年2月には,議院上院が大統領選挙調査特別委員会を設置,5月にはハーバード・ロースクールのコックス教授が特別検察官に任命されます。



上院調査委員会の調査により,疑惑はさらに高まります。ホワイトハウスが大がかりな盗聴を行っていたことが判明したのです。さらに,大統領の会話を録音したテープがホワイトハウスに存在することも分かります。



コックス特別検察官は7月,ニクソン大統領に対し,そのテープの提出を求めました。しかしながら,ニクソン大統領はそれを拒否。そこで,コックス特別検察官はテープの提出を求める訴えを起こしたのです。



ニクソン大統領は,大統領の権限を使い,それを拒む措置に出ます。司法省の訟訴長官を務めるロバート・ボークにコックス特別検察官を罷免させたのです。でも,その後任となったレオン・ジャウォースキー特別検察官は,再度テープの提出を求めて訴えを起こしました。



事件の重大性にかんがみ,アメリカ連邦最高裁判所が直接この事件を取り上げることになり。口頭弁論が行われました。ニクソン大統領側の弁護士は,「テープには高度の機密性が認められ,行政特権によって司法による提出命令から保護される」という主張を行いました。でも,口頭弁論は終結し,7月24日に,ニクソン大統領の主張を退けて,テープの提出を命じる判決が,全員一致で下されたのです。



実は,この判決をニクソン大統領が拒否した場合,それでも強制的にテープを提出させる法律上の手段はありませんでした。ひょっとすると,ニクソン大統領は拒否し,テープの内容は闇に葬られるのではないか,と言われていたその時,ニクソン大統領はアメリカ連邦最高裁判所の判決に従い,テープを提出したのです。



そしてそこには,ウォーターゲート・ビルに賊が押し入ってから6日目に,ニクソン大統領がCIAを使って,ウォーターゲート事件の調査を止めさせるよう命じる会話が録音されていたのです。



その決定的な証拠の前に,ニクソン大統領は辞任を決意。8月5日に,アメリカの歴史上初めて,任期半ばで大統領職を辞任したのでした。






「法と秩序」の回復を訴えてアメリカ大統領の地位を得たニクソン大統領が,自らが「法」に違反したことを理由として,大統領職を離れたわけです。そのきっかけは,ニクソン大統領によるさまざまな策略と圧力に屈することなく出された,アメリカ連邦最高裁判所の判決にありました。



この歴史的事件において,私達は,テープの提出を命じた全員一致による判決には,ニクソン大統領によって任命された,4人のアメリカ連邦最高裁判所判事が加わっていたことを忘れてはいけないと思います。ある者が法に反したならば,また裁判所がテープの提出を命じることに法律上の根拠があるのであるならば,客観的に法を解釈・適用し,社会が求める方向に,社会を導いていく。それが司法の,裁判所の役割になります。



そしてその役割は,判決の結果,自らを任命した大統領が辞任への道をたどる可能性が高いとしても,決して変わらないわけです。つまりそれは,司法権と裁判所の存在と判断が,私達の社会における如何なる存在からも独立していることをも意味することになるのです。



それこそが「司法の独立」であり「裁判官の良心」であります。アメリカ大統領は,極論すればその意思によって世界のいかなる国をも武力をもって滅ぼすことができる力を有する存在です。その力を有したニクソン大統領であっても,自ら任命した4名の裁判官が所属するアメリカ連邦最高裁判所の判断を曲げることはできず,その判決に負けたことになります。



それがまさに「法の支配」であり,その理念の実現された瞬間だったのだと思うのです。