判決が注目されていた遺伝子の特許権につき,アメリカの連邦最高裁判所が6月13日,人の遺伝子は特許の対象にならないとする判決が出されました(2013年6月15日付朝日新聞大阪版掲載の記事より)。
「遺伝子特許認めず 米最高裁 企業の知財戦略に影響
乳がんの原因遺伝子の特許をめぐる訴訟で米連邦最高裁は6月13日,人の遺伝子は特許の対象にならないとする判決を出した。米国では人の遺伝子が30年以上,特許で認められてきたが,根本的な考え方が変わることになる。
一方,人工的に合成された遺伝子は特許の対象になるとしたため,今後に与える影響は不透明な部分がある。
ミリアド・ジェネティックス社(ユタ州)が保有するBRCA1,BRCA2という家族性乳がん・卵巣がんの原因遺伝子の特許に対し,医師や患者,市民団体が『特許は認められない』と訴えていた。
ミリアド社は,乳がん・卵巣がんのリスクを調べる検査で利益を上げている。判決は『自然に存在するDNA断片は自然の産物であり,分離されただけで特許は認められない』として,原告側の主張を支持した。・・」
元来,奴隷制度の禁止は,「人」に対する権利成立の禁止でありました。
奴隷制度の下では,人であるはずの奴隷が,「物」として所有権の対象となり,「物」として売買の対象となっていたのです。そして奴隷制度の廃止は,「人」に対する権利,「人」を支配する権利の成立を忌避することで実現されたことになります。
つまり私達人類は,歴史の中で,人は人である以上互いに価値の差はなく,この世に異なる「人」,そして異なる「人種」が存在しているのは,40億年前に1人ぼっちでこの世に誕生した生命が,「生きたい」と考えて,性のシステムなどの異なるDNAを生み出す工夫を積み重ねてきた結果なのだ,ということを,経験則的に知ったことになるのです。
そのような観点からすると,人の一部である遺伝子そのものに特許という「権利」を成立させてよいのか,という点は,法と人の関係そのものに触れる,とても興味深い問題です。
さらにこの問題は,遺伝子そのものに特許という「権利」を認めた結果,医学の世界で治療を必要としている患者の方に対して,その特許権の存在により,特定の医療技術を用いることができなくなる可能性を生ぜしめるという意味で,法と医療の問題に対しても,大きな影響を及ぼす問題でもあるのです。
さらに申しますと,この問題は,人と自然界との関係という,法哲学的な問題を提起するものではないかと,私は感じるのです。科学を発達させてきた人類は,遺伝子工学の技術を手に入れ,今日では「生命」そのものの存在をもコントロールする力を得るようになりました(ES細胞,iPS細胞はその最先端の技術です)。
でも私は思うのです。人はあくまでも1つの生命体として,この大きなレジュームである自然の一部を構成する存在にすぎないはずです。
その人が,逆に生命を,さらにはその自然界そのものを支配する力を手に入れつつあることを,レジュームである自然は予測していたのでしょうか。
宇宙物理学の論争においてアインシュタインは,「神はサイコロを振らない」との言葉を残しています。
私は,そのアインシュタインの言葉から,宇宙は(それは神が創りもうたと思わざるをえないほどに)見事な調和により構成されているということ,だからこそアインシュタインの特殊相対性理論における E=mc² のように,物理公式によって非常にシンプルな表現をすることができるのだ,という考えが込められているように思えます。
遺伝子という人の構成要素も,まるで神が創りだしたとしか思えないような美しい構造をしています。そして,その遺伝子そのものに「権利」を成立させようという試みは,やはり自然界の一部にすぎず,決して自然そのものを支配することができない人による,自然への畏敬の念を忘れた行動なのではないか,という隠れた意味が,冒頭でご紹介したアメリカ連邦最高裁の判決の背後には隠されているような気もするのです。