なかぬなら

殺してしまへ

ホトトギス







織田信長は,室町幕府を滅ぼし,その手で天下統一を成し遂げようとした直前に,いわゆる本能寺の変において,明智光秀の襲撃によってこの世を去りました。戦国時代の三英傑の一人と評価されています。



織田信長の性格の特徴については,猜疑心と攻撃性がその最大の特徴として指摘されています。周囲の人間を信用せず,自分だけを信じ,犯行勢力は肉親であろうと徹底的に攻撃する。そんな冷酷な性格により,戦国時代を生き延びた,と言ってよいでしょう。



でも,そのような冷酷な織田信長の性格は,一体どのようにして形成されたのか,という点は,あまり知られていない側面だと思います。この点について,先日の朝日新聞に,精神科医の方の興味深い指摘が掲載されていました(2012年9月29日付朝日新聞掲載の記事より)。



その精神科医の方は,「幼い頃に,母親に無視され続けた信長は,一生をかけて自分の生きる意味を確認したのではないか」と言われたのです。



抵抗のできない幼少時代に受けた心の傷が,その人の人生を支配することがあることは,多くの例からも知られています。



以前このブログにも書きましたが,「ピーターパン」の著者であるイギリス人のJ.M.バリ(1860-1937)の家族では,バリが幼い頃,兄弟の中で母親の愛情を独り占めにしていた兄がおり,その兄が事故で亡くなった後は,母親が死んだような状態となり残りの人生を送ったのです。



バリは,そんな母親の愛情を,何とかして自分に振り向かせようと考え,必死になって兄の代わりを務めようとしたけれども,その願いが叶わないまま,母親が亡くなったのでした。



一方では母親を求めつつ,一方では拒絶するピーターパンの姿は,著者であるバリの心そのものが反映されている,と指摘されています。


幼い頃に,母親に無視され続けた信長は,「自分はそのような人間ではない。価値のある人間である。」と考えて,それを確かめるために天下統一を志したのでしょうか。



高木彬光著『チンギスカンの秘密』(角川文庫)には,源義経が大陸に渡りチンギスカンを名乗ったのではないか,そして,「チンギスカン」というその名前の中に「源義経」を隠語として含ませており,「自分はここにいる」ということを,日本に残してきた愛する人達に伝えるために,あのモンゴル帝国を作ったのではないか,という説が登場します。



自分自身には責任がないのに,本来は愛情を注いでくれるはずの母親から無視をされ続けるという経験により,その心ない大人によってゆがめられた信長の心が,冷酷で残忍な手段を用いながら天下統一を実現しよう,そのことで自分自身が価値のある人間であることを証明しようとしたことは,その動機として十分なのではないでしょうか。






でもそうすると,もう一つ不思議なことがあります。それは,そのような動機であった信長が,なぜ女性を含む70人ほどの人員で,無防備のまま本能寺に滞在したのか,という疑問が改めて浮上するのです。


この点につき,上記朝日新聞記事には,信長の生涯を描いた作品『下天は夢か』(角川文庫)の著書をお持ちの津本陽さんのお考えとして,「信長自身が明智を誘い,自分の命運を試したのではないか」という推理が掲載されていました。



私自身としましては,天下統一の直前に,信長が「自分は本当は,力や恐怖を与えなくとも,人々から愛情や信頼を得ることができる人間なのではないか」と考えて,それを試してみたいと思った瞬間があったような気がしています。



でも,この世は謎に満ちあふれている。



真実は信長自身にも,分からないのかもしれません。