『アルプスの少女ハイジ』は,スイスの作家ヨハンナ・スピリさんの児童文学作品です。原作は1880年から1881年に執筆されました。日本では,アニメ化された作品がとても有名ですね。アルプスの美しい自然と,その中で繰り広げられるハイジ,おじいさん,ペーターらの心温まる交流の様子が,世代を超えて愛されています。
『アルプスの少女ハイジ』は,元々は『ハイジの修業時代と遍歴時代』,そして『ハイジは習ったことを使うことができる』という2部作として発表されました。その2部作の構成は,ドイツの文豪ゲーテの『ヴィルヘルム・マイスターの修業時代』,そして『ヴィルヘルム・マイスターの遍歴時代』という2部作をモチーフとしていることで知られています。『アルプスの少女ハイジ』の後半の舞台は,クララが住むドイツのフランクフルトに移りますね。フランクフルトはゲーテの生地なのです。
改めて『アルプスの少女ハイジ』の原作を読み直してみますと,作品全体をキリスト教の精神が満ちていることに気づきます(その点も,キリスト教の教えをさまざまな芸術作品として発表したゲーテの諸作品に共通するところです)。
作品中で多く用いられている詩もそうですし,ペーターが,アルプスの山にクララが来た後,ハイジがずっとクララと一緒にいることに嫉妬して,クララの車椅子をがけから落として壊してしまうシーンでは,次のような言葉が登場します(ヨハンナ・スピリ『アルプスの少女ハイジ』(講談社,2011年)290頁)。
「でもね,ペーター,あなたのもくろみははずれましたね。クララをひどいめにあわせてやれ,と思ってしたことが,かえって,クララが歩くようにしむけたことになりました。これが,神さまのなさりかたなんですよ。
神さまは,ひどいめにあわされた人には,そのわざわいをしあわせに変えてくださるのです。そして,わざわいをしかけた当人は,そのわざわいがわが身にはねかえって,一人だけつらい思いをするのです。よくわかりましたか?ペーター。」
以前拝見したNHKの番組では,ヨハンナ・スピリのお孫さんのインタビューが放送されており,お孫さんはヨハンナ・スピリについて「とても信心深く,またとても厳格な方でした」と言われていました。
その番組を拝見した際には,アニメの『アルプスの少女ハイジ』におけるハイジの自由奔放なイメージと,ヨハンナ・スピリが「厳格な方だった」というお話とが,私自身の中で結びつかず,不思議な感じを受けたことを覚えています。
でも,改めて原作を拝読すると,そのヨハンナ・スピリさんの厳格さは信心深さから来るものであり,そのキリスト教の精神を子供たちに伝えるために書かれた本が,『アルプスの少女ハイジ』なのだと気づくのです。
そんな『アルプスの少女ハイジ』ですが,2010年に,ドイツの文学研究家ペーター・ビュートナーさんにより,この作品が1830年にドイツの作家へルマン・アーダム・フォン・カンブが発表した作品『アルプスの少女アデレード』に似ていることが指摘されたのです。
ヨハンナ・スピリの母国であるスイスの新聞が「ハイジは盗作だった」と報じるなど波紋が広がりましたが,そのことを発表した文学研究家ペーター・ビュートナーさんご自身は「私は盗作とは思わない。シェークスピアやゲーテも同じように作品を作ったのだから。」とコメントされています。
ペーター・ビュートナーさんが「シェークスピアやゲーテも同じように作品を作ったのだから。」と言われたのは,その2人の文豪の名作群が,執筆当時存在した作品をモチーフとして,その作品から受けた影響を取り込むように作られている,ということを言われているものと思います。この私のブログでも「シェイクスピアと著作権」という記事で言及したことがあります。
「シェイクスピアという人は,本当はいなかったのではないか,1人の人間があれだけの数の名作群を執筆できるはずがない,という主張をする人がいます。
でも,シェイクスピアがそのように言われるほどの名作群を残せたのは,当時の著作権法が強い規制をしておらず,当時既に存在ししていた著作をモチーフにして,そこから受けた影響を新しい著作として昇華させることができたからなのです。」という内容です。
私は発見されたという『アルプスの少女アデレード』そのものを拝読したことはありませんが,報道されている内容からすると次のように思います。
まず両作品の間には,「山間部に祖父と暮らす少女が外国の都会に引っ越さなければならなくなる。都会に行った少女は病気になるが,山に戻ると再び元気になる。」という筋書きの類似点がある,ということです(ただし『アルプスの少女アデレード』にはクララは登場していません)。
しかしながら,「自然を愛する少女が山から都会に行くと病気になり,再び山に戻ると元気になる」という大きなストーリー(それは作品構成におけるアイディアです)は,特に特殊性があるわけではない,という点が大切だと思います。現在の著作権法においても,アイディアそのものは著作権の保護の対象ではないからです。
著作権の専門家である弁護士の福井健策さんもその著作『著作権とは何か』(集英社新書,2005年)で,映画「ウエスト・サイド・ストーリー」とシェイクスピアの作品「ロミオとジュリエット」を比較しながら,作品のアイディアそのものをモチーフとして用いることは著作権法違反とはならないのだ,という解説をされています。
加えて,上述しましたように,『アルプスの少女ハイジ』が執筆された当時の著作権法そのものが,かつてシェイクスピアやゲーテが多くの存在する作品に影響を受け,それをモチーフにする形で数々の名作群を作り出した時代に類似したものだったことが考えられます。著作権法が厳格ではなかったが故に,数々の名作が生み出された時代の作品だったわけです。
そして,『アルプスの少女ハイジ』は上述しましたように,キリスト教の教えを子ども達に分かりやすく伝えようという思想から創作された作品です。
仮に著者であるヨハンナ・スピリが,少女時代に『アルプスの少女アデレード』を読み聞かされていて知っていたのだとすると,その作品をひとつのモチーフとして,そのストーリー・アイディアを用いながら,キリスト教の教えを子供たちに伝えるという目的で作品を執筆したのだと思います。
それがペーター・ビュートナーさんが言われる「シェークスピアやゲーテも同じように作品を作ったのだから。」ということなのでしょう。
芸術とは,ある作品にinspireされ(刺激を受け),そのinspiration(刺激)を作品へと昇華させていくものです。それが芸術だと思います。私達は,法を動かす上で,それを促すことこそすれ,それを否定すべきではないと思います。その意味において私は,ペーター・ビュートナーさんの御意見に賛成するものです。
上で引用しました『アルプスの少女ハイジ』(講談社)には,序文に以下のような文章が添えられています。
「この作品のもう一方の主人公は,アルプスの自然です。
作者は敬虔なキリスト教の信仰を作品のバックボーンとしていますが,アルプスの自然を描く作者の筆に愛情がこもればこもるほど,そこにはもっと古い世界が目をさまします。
たとえば,おじいさんのたてこもる小屋の裏にあるもみの木のざわめきには,異教的な民族の遠い響きさえ聞きとれるような気がします。
世に成功作といわれる作品は,ときとして作者の意図を超えて,より大きな世界を獲得するもののようです。
この作品にしても,一見信仰の力によって貧富の差をなくそうと説いているようでいて,その実,もっとたくさんのこと,つまり人間のもつ希望の力が切り開く,より高い,あるべき調和の世界を指し示しているようです。
真に幸福な古典とは,こういう作品をいうのでしょう。」
紙に書かれた作品が,その執筆者の意図を超えて,より大きな世界を獲得する,ということは,紙に書かれた活字である法律が,社会の変化に合わせてその意味を変える姿に似ているように思います。
世界中で愛され続けている『アルプスの少女ハイジ』には,これからも多くの意味が与えられ続けるのでしょう。アニメ化など,姿を変えた作品の愛し方をされるのだと思います。それはまさにシェイクスピアやゲーテの作品群が愛されている姿そのものでありまして,ヨハンナ・スピリが私たちに伝えようとしたスピリットを,今後も大切にしていきたいと思うのです。