現在上映されている映画『闇金ウシジマくん』を見る機会がありました。原作はコミック誌『ビックコミックオリジナル』で不定期に連載されており,それを映画化した作品です。



闇金問題を扱った作品と聞いて見に参ったのですが,一言では言い表せない作品となっているように思います。最も強く感じたのは,「恐い」という感情です。その「怖さ」は「お金」という存在の怖さです。



映画では,金に狂う人,金に苦しみ続ける人など,複数の登場人物の生活と人生に,法外な利息で金を貸し付ける主人公のヤミ金融業者の丑嶋が関わり,「お金」という存在の怖さが現れます。



『○○くん』というコメディ風のタイトルとは裏腹に,そのストーリーは極めて悲惨な結論に向かっていきます。そこに,映画の制作に関わられた方々のメッセージが込められているのだと思います。





本来,私達の社会においてお金は,現在の経済社会の潤滑油としての役割を担う存在です。ある教科書で,とても分かりやすい説明がされていますので,ご紹介いたします。



鈴木祿弥『債権法講義』(創文社,四訂版,2001年)127頁



「個人が生活を営んだりしてゆくためには,種々の財貨が必要で,社会的分業の進んだ今日では,財貨がそれを必要とする個人によって採取ないし製造されることは稀で,他人の所有している財貨を自己のために調達することが不可欠となる。



しかし,かかる他人も,当該財貨を必要とする者と平等の人格を有し,所有する財貨を自己の意思に反して手放すことを強制されることはなく,かつ,かれ自身もまた,自己の所有しない別の財貨の調達を必要としているはずである。



そこで,Aは,Bの所有する財貨①を調達するため,自己が所有し,かつBの調達しようとしている財貨②を供して,Bをして,財貨①を譲渡する意思表示をさせようとする。



かくて,AB間に財貨①と財貨②との交換契約が成立する(民法586条)。



しかし,Aの必要とする財貨①の所有者Bが,Aの所有する財貨②自体を必要とすることは,今日の社会では,まれで,Bはむしろ第三者Cの所有する財貨③を必要とする場合が多い。



そこに,一般的交換手段としての金銭の存在意義があり,Aは,財貨②をDに供してDからα円の金銭をえ,このα円の金銭を財貨①の所有者Bに供して,Bから財貨①をえ,他方,Bは,このα円を供してCから財貨③を調達するという形で,社会的規模での財貨の交換すなわち流通が行われるのである。」



このように,お金とはあくまでも経済社会の潤滑油として生み出された存在であって,それは私達の社会が便利になるための手段にすぎないはずなのです。



ところが現実には,お金とはそのような役割を超えた存在となっており(お金こそが目的となっており),人がお金に振り回され,そしてお金のために人生を棒に振る場合もあるわけです。



それはあたかも人類が有能なロボットを開発したけれども,そのロボットが逆に人類を支配している世界にも思えてしまいます。






以前拝見したTV番組では,世界中で海に沈んでいる宝物を探すことを生業としている方々についての放送がされていました。それらのいわば「宝探しのプロ」の方々は,時々ですが本当に宝が積まれたまま海に沈んだ船などを発見し,莫大な富を得ているそうです。でも実は,その方が宝を探し当てるまでに費やす経費は,海から見つけ出す宝の価値と,概ね一致するくらい必要なのだそうですよ。



その意味において,やはり私達の社会には真の「一攫千金」は存在しないのかもしれませんね。皆さん,どうぞお金にはお気を付け下さい。





お金は良い召使いであり,かつ,悪い主人でもある。



ベンジャミン・フランクリン(アメリカの建国期に活躍された政治家)