例えば,Aさんが窃盗の容疑で逮捕され,その後起訴されたとします。起訴されましたので,刑事裁判が行われます。
その刑事裁判においてAさんは,「自分は窃盗なんてしていません」と主張し,弁護人も同じように主張したとします。そして刑事裁判において,証拠調べが行われました。
その証拠調べの結果裁判官は,Aさんが窃盗をしたというある程度の可能性は感じるものの,Aさんが犯人であるという確信を持つことができなかったとします。
ところが,そのAさんには実は数年前に,窃盗の前科があったとします。以前に窃盗を行い,刑事裁判で有罪判決を受けていたのです。
このような場合裁判官は,「この刑事裁判における証拠からは,Aさんが窃盗を行った,という確信を持つことができなかった。だからそのままだと無罪の判決を下すことになる。
ただ,Aさんが以前窃盗を行い,裁判で有罪判決を受け,前科がある,ということを合わせ考慮すると,今回起訴されている窃盗事件について,Aさんが犯人だという確信を持てるのだ。」と考えて,Aさんについて有罪判決を下すことができるでしょうか。
一見,「以前窃盗行為を行い,裁判で有罪判決を受け,前科がある」ということも(前科調書に記載された)証拠ですので,その事実と他の証拠とを合わせ考慮して,有罪であるとの確信に至った場合には,有罪判決を下してよいように思えます。まさに「証拠に基づく裁判」だからです。
でも,もう皆さんお気づきだと思うのですが,「前科がある」ということで,人を有罪かどうかを判断することは,「有罪であるとの予断」が生じます。人は「以前犯罪を行ったのだから,今回もやったのだろう」という判断を行いがちです。本来ならば無罪であるはずの人が有罪になってしまう危険が生じるのですね。
そのように前科に基づく判断は過ちが生じやすいので,刑事裁判実務上,「前科がある」ということを有罪の根拠とすることは,一部の例外を除き,できないことになっているのです。これを講学上「法律的関連性」の問題と呼びます(判断権者に予断を生じしめるような証拠は,事件との間で関連性を有しない,と扱われることをそう呼ぶのです)。
私達は完全ではなく,法律制度もそのこと(この世には完全な人間は存在しない,ということ)を前提に構築されています。そして刑事裁判の証拠とそれに基づく事実認定についても,その完全ではない人が判断を行う以上,予断が生じ,誤った判断がされるような証拠を有罪の根拠とすることはできない,と法律そのものが求めていることになりますね。法律制度を貫く理念は,刑事裁判の証拠法においても,現れているのです。
この「法律的関連性」の関係から,興味深い問題を提起した裁判があります(静岡地裁昭和40年4月12日判決)。事案は,列車内の集団スリの仲間2人が,現行犯逮捕された9号車内の窃盗未遂(第一行為)のほかに,さらに30分ほど前に7号車デッキで行われた他の窃盗行為(第二行為)についても有罪であるかが,争われたものでした。
つまり,前科ではなく,同時に起訴された2つの犯罪行為の内の1つが有罪であることを根拠の1つとして,もう一方の犯罪行為の有罪を認定してよいか,という問題です。
その裁判において裁判所は,現行犯逮捕された9号車内での窃盗未遂の事実(第一行為)の証明が刑事裁判においてなされた場合には,その事実を1つの根拠として,同時に起訴されている,その30分前に行われたと主張されている,7号車デッキでの窃盗行為(第二行為)についても有罪としてよい,と判断したのです。
「同じ列車内で,同じ日に別な窃盗をしたという証拠があるのだから,もう1つの窃盗についても犯人に違いない」という事実認定が,上記「法律的関連性」の観点から許されるか,という問題ですね。これを裁判所は許される(つまり予断を生じることはない)としたのです。
その一方で,私は司法試験の受験中に著名な刑事訴訟法学者の光藤景皎先生の講義を聞く機会があったのですが,その際先生はこの裁判例を紹介しながら,「裁判所の立場は分からないでもない。でも刑罰を科すわけですからね・・。」とつぶやくように言われたことを,今日でも覚えています。
「人に刑罰を科すこと(それは,平和な人生を送っている人のその人生を破壊することを意味します)の重み」を考えると,「予断を生じる危険性」は決して前科そのものの問題だけではなく,その危険性を軽く考えるべきではないのではないか,本当は無罪であるはずが有罪の判決を下してしまう可能性はないのだろうか,
私達人間は決して完全ではなく,多くの過ちを繰り返して来た存在であることを,司法権の担い手となり実際に法を動かす立場となった場合にも決して忘れないでください,と光藤先生は,これから司法試験を受けようとしている私達に伝えたかったのだろうな,と今でもその時のことを懐かしく思い出すのです。