刑事訴訟法には「伝聞証拠」という,興味深い問題があります。伝聞証拠とは,公判廷外の供述を内容とする公判廷における公述又は書面で,供述内容の真実性を立証するためのものをいいます(光藤景皎『口述刑事訴訟法中』(成文堂,補訂版,2005年)201頁以下)。
例えば,①XがAをピストルで撃ったのを目撃した甲が,自ら公判廷で直接証言しないで,甲からその話を聞いた乙が代わりに甲判廷で「甲は私に『XがAをピストルで撃った』と言いました」と供述する場合,この乙の供述が伝聞証拠になります。
また,②甲が公判廷でみずから証言しないで,「XがAを撃ちました」という記載のある書面が証拠として提出される場合,それもまた伝聞証拠にあたります。これらの証拠を排除しようとする法則を「伝聞法則」といいます。
刑事訴訟法320条1項は,「刑事訴訟法321条ないし328条に規定する場合(刑事訴訟法が例外的に証拠として認めた場合)を除いては,(甲の)公判期日における供述にかえて書面を証拠とし,又は公判期日外における他の者(甲)の供述を内容とする(乙の)供述を証拠とすることはできない」との規定を設けているのです(ちなみに英米法では「伝聞証拠」を「hear-say-evidence」と言います。「伝え聞き証拠」という意味です)。
なぜ刑事裁判において伝聞証拠が証拠として用いることが許されないのか,と申しますと,血のついたナイフのような物的証拠(それは客観的な状態が証拠となります)と異なり,目撃証言のような供述証拠は,犯罪について①知覚し,②記憶し,③表現(証言)する,という各過程を経て初めて証拠となることに由来しています。
目撃証言には,それら①ないし③の各過程に誤りが入り込む可能性があるのでありまして,それを反対尋問によってチェックしない以上,真実である保障に欠けているからです。
人は完全ではない以上,①知覚の過程(見間違いはないか,見たのは遠い距離からではなかったかなど),②記憶の過程(見た事実を違うように記憶していないか),③表現の過程(記憶している内容と違うことを言っていないか)の各過程に誤りが存在する可能性がある,だから伝聞証拠を人を有罪とする証拠として用いてはならないのだ,ということですね。この刑事訴訟法の立場は,「この世に完全な人は存在しないのだ」ということを前提としている法律制度そのもののの理念の現れのように思います。
そしてその反対尋問権の保障は,被告人側からすると,憲法37条2項が保障する人権としての反対尋問権の保障(憲法37条2項「刑事被告人は,すべての証人に対して審問する機会を充分に与えられ・・る権利を有する」)の刑事訴訟法上の発現であることにもなるのです。
ただ,実は伝聞証拠かどうか自体の判断はが難しいものなのです。これは司法試験受験生の方にも頭を抱えたご記憶のある方も多いのではないかと思います。
例えば,「甲が公衆の前で,『XがAの時計を盗んだ』と言いました」という乙の公判廷供述は,XのAに対する窃盗被告事件においては伝聞証拠であって,証拠として用いることができないことは明らかですが,甲のXに対する名誉毀損事件においては,伝聞法則ではないのです。これは,甲のXに対する名誉毀損事件においては,甲が公衆の前でXの名誉を毀損する発言をした,という言葉の存在そのものが証明される必要があるからである,と説明されています。
この伝聞証拠の例外として証拠として用いることを刑事訴訟法自身が認めている1つが,裁判官面前調書と呼ばれる証拠です(刑事訴訟法321条1項1号)。
例えばXYが共犯であるとして起訴されている事件があるとします。XYの審理が分離されて,別々に行われることになりました。
先に行われたYの審理でYは「確かにXと2人で犯罪をしました」と供述したとします。そしてそのYの供述は,裁判所の訴訟記録である調書に記載されました。
先に行われたYの審理でYが事実を認めたので,その裁判はYの有罪で終了したとします。その後に,Xの審理が始まったとします。
その審理でXは「自分は犯罪などしていません」と無罪を主張しました。そこで検察官は,先の審理でXと一緒に犯罪を行ったことを認めたYを証人としてXの審理に証拠請求したとします。
ところがその証人尋問でYが,「自分は1人で犯罪をしたのであって,Xと一緒にはしていません。Xは無罪です。」との証言をしたとします。つまりY自身の先に行われた審理とは全く逆の証言をしたことになります。
その場合,検察官は先のYの審理でYが行った,Xと一緒に犯罪を行ったという供述を,後のXの審理で用いたい場合には,Yの審理の際に作成された調書である裁判官面前調書そのものを,後のXの審理で証拠として提出することになります。これが刑事訴訟法321条1項1号の規定した,裁判官面前調書です。
ところが,この裁判官面前調書も,当然にはXの審理で証拠として用いることはできない,と考えるべきなのです。といいますと,先のYについての審理では,XもXの弁護人も審理に参加していかなったのですから,「Xと一緒に犯罪をしました」というYの供述に対して反対尋問を行えていないのです。
そのような観点から実務では,後のXの審理において,Yが前と違う供述を行い,検察官がYの前の供述内容を記載した裁判官面前調書を証拠として提出したいと考えた段階で,その裁判官面前調書をXとXの弁護人に開示して,その内容についてYに対して反対尋問を行えるような運用がされているのです。
仮にそのような開示なしに,Yの証人尋問が終了して,Yの前の審理における裁判官面前調書が提出されてしまいますと,それは憲法37条2項が保障する,被告人の充分な反対尋問権を侵害することになるのです。
私が担当した刑事事件で,裁判官面前調書の開示がないまま証人尋問が終了し,その裁判官面前調書が証拠請求されたものがあり,上記のような観点から,それは憲法37条2項に違反するとの弁護人としての主張を行ったところ,検察官がその主張を認めて,その裁判官面前調書の証拠調請求を撤回したことがありました。