岡山県倉敷市にある著名な大原美術館で,現在美術館館長をされているのが,高階秀爾さんです。高階さんは最近の著書『誰も知らない「名画の見方」』(小学館101ビジュアル新書,2010年)で,レオナルド・ダビンチのデッサンについて,とても興味深い解説をされています。
高階さんによりますと,レオナルド・ダビンチは,人間と自然の秩序は密接な関係があると考え,その二つを解き明かすことで,「美」の本質を見出すことができると信じていたそうです(同所74頁)。
そして高階さんは,レオナルド・ダビンチが水の流れを描いた次のデッサン「渦素描」を例に出し,以下のように解説をされるのです(同書76頁)。
「科学者レオナルドは,デッサンを描くうちに,水がさまざまな変化を遂げることに気付いた。そして,日常にありふれている水の流れを下降,衝撃,破壊,循環など,細かく67種にも分類し,優れた描写力をもって,膨大な数のデッサンを残している。・・
そして,画家レオナルドは,それらのデッサンを描くうちに,『美は無限に変化するもののなかにある』という基本的な原理を見い出したのである。」
「無限に変化する」という言葉で頭に浮かんだのは,このブログでも何度かご紹介している団藤元最高裁判事の次の言葉でした(団藤重光『実践の法理と法理の実践』(創文社,1986年)143-184頁)。
「裁判というものについて,最も古典的な考え方を示したのはモンテスキューでありまして,かれは『裁判官は法律の言葉を発音する口である』ということを『法の精神』の中で申しております。
法律にすべて書いてある,裁判官はそれをただそのままに発音する,それだけでよろしい,またそうでなければならないのだ,というのです。
要するに裁判官の恣意というものを一切排除しようというのであって,立法府が国民の総意として作った法律をそのままに実現する,それが裁判であり司法である,という考え方であります。・・
法は裁判を通して実現されるのですが,それは客観的に存在する法を発見し認識するということではなくて,主体相互のぶつかり合いによって社会的に妥当する具体的な法規範を創造して行くことであります。
社会が絶えず動いていくものである以上,この創造的活動もまた永遠不断のものでなければなりません。裁判における客観性は与えられたものではなく課せられたもの,しかも永遠に課せられたものでありまして,それは直接には裁判官の,間接には訴訟関係人その他の者の,さらに究極的には法の担い手としての国民一人一人の主体的な努力にかかっているのであります。」
最高裁判事も経験された団藤先生は,司法とは,モンテスキューが言うように存在する法律をただ発音するだけの国家作用ではなく,主体相互のぶつかり合いによって社会的に妥当する具体的な法規範を創造して行く国家作用である,と言われます。
そしてその法規範を創造する活動は,訴訟関係者をはじめとする人々永遠不断の創造的活動でなければならない,と言われるのです。
司法とは,モンテスキューが言うように,紙に書かれた活字である法律を,そのまま適用するだけの作用ではありません。その活字である法律に意味を与え動かしていく作用です。
そして,団藤先生が司法が具体的な法規範を創造する作用であると言われるのは,司法が扱う事件が,喜びと悲しみに彩られた人生そのものであるからではないかと思います。決してこの世に同じものが存在しない人生そのものを扱い,人々の人生に直接影響を与える司法であるからこそ,その司法の判断,司法による法規範の創造的活動は,永遠不断のものなのだ,とされるのではないでしょうか。
次の新聞記事も,私がとても好きな記事で,何度もこのブログで取り上げましたね。
オバマが大統領に選ばれた2008年の選挙の際の朝日新聞の記事で,ある地方の散髪屋を営む男性の話が掲載されていました。
初めて黒人大統領が選ばれるのではないかと言われていたその選挙において,その男性は「この国は虹のようなものだ。いろいろな色があり,決して交わろうとしない。でもだからこそ美しいんだ。」と言われたそうです。
司法が扱うのは,人生そのものです。私達の人生は,喜びと悲しみに照らされて,きらきらと輝いています。そして私達の社会も,様々な色で照らされ,虹のように美しく輝いているのです。
レオナルド・ダビンチは,「美は無限に変化するもののなかにある」と言われました。私達の社会は,様々な問題を抱えながら,それでも光を放ちながら無限に変化していきます。だからこそ社会は素晴らしく,司法は美しいのだと思います。