先日アメリカABCニュースで,アメリカの連邦最高裁判所において,表現の自由について注目すべき判決が出されたとの報道を目にしました。
問題となったのは,戦争で亡くなった軍の兵士の葬儀で,戦争を非難する内容のデモを行ったことを理由として,刑罰を科すことが,表現の自由を保障した憲法に違反しないか,というものでした。ニュースの内容を引用させていただきます(日本時間3月3日(木)放送のABCニュースより)。
「アメリカ連邦最高裁は,裁判官の8対1の評決により,軍の兵士の葬儀において,デモにより戦争への憎しみのメッセージを伝えてよいかにつき,憲法修正1条の下,そのようなデモは認められる,との判断を行いました。
このデモで人々が訴えた話は,とても残酷な内容でした。アメリカ人は,どうしてこのようなデモが法律の下で認められるのかと考えていました。でも今日,連邦最高裁は判断を下しました。
このデモは,公の問題,軍における同性愛者やイラク戦争について扱っているため,憲法下保護されるべきであると連邦最高裁は語っています。
これは,何世代にも渡って,影響を与えるような判決となるでしょう。連邦最高裁が,非常に人気がないような言論についても,憲法の下,保護されるという判決を下しました。これこそ憲法修正第1条です。
マシュー・スナイダーさんは,イラク戦争で死亡しました。そしてその葬儀でデモが行われました。
『家族は今日怒りを持っています。私達はもはや,この国で亡くなった者に尊厳を持って葬儀を行うことができません。』(マシュー・スナイダーさんの父の言葉)」
このアメリカ連邦最高裁判決において,ジョン・ロバーツ最高裁長官は,個別意見を述べているそうです。
私はこのジョン・ロバーツ最高裁長官がとても好きなのですが,ブログで何度も引用しております,彼の長官就任時のインタビューを,もう一度引用したいと思います。
「私が法律家としての活動で,一番感銘を受けたことは,弁護士としてアメリカ合衆国を被告とした訴訟の原告代理人を務めた時のことであった。
アメリカは,その有する武力では世界中のいかなる国をも屈服させることができる国である。
しかしながら,裁判所で,法を根拠として,論理を重ねることで,そのアメリカの立法上,行政上の過誤を追求すると,世界一の武力を誇る国が,単なる一私人に負けるのである。」(ジョン・ロバーツ(第17代アメリカ合衆国連邦最高裁判所長官)の就任の際のインタビューより)
このインタビューの内容は,まさに「法の支配」とは何かを語っていますね。「力の支配」する世界ではなく,透明なプロセスで成立した法に,さらに法曹三者制度や裁判員の方々も参加していただき,多様な方向から光を当てることで,その法に意味を与えて動かしていく,その結果社会も動いていく。それが「法の支配」です。
そのような理念を述べられていたジョン・ロバーツ長官は,上記のデモ事件判決において,以下のような個別意見を書かれたそうです。引用させていただきます。
"Speech is powerful.
It can stir people to action, move them to tears of both joy and sorrow, and as it did here inflict great pain...
We cannot react to that pain by punishing the speaker."
「言論はとても大きな力を持っている。
それは,人々を行動させることができる。さらには,人々に喜びと悲しみの涙をもたらすことができる。そして,大きな痛みをもたらすこともある。
しかし,言論が大きな痛みをもたらすとしても,言論を行った者に刑罰を与えることによって,その言論に反論することはできないのだ。」
「言論には言論で反論を行うべきであり,国家が刑罰をもってそれに制裁を行うべきではない。なぜならば,言論に対して国家による規制が行われるようになると,その規制がいつ民主制のプロセスそのものを規制する手段として用いられるようになるか分からないからだ。」というのが,表現の自由を人権の中でも特に重視しようとする「二重の基準論」の立場ですね。そのことは,以前の記事「芦部先生と二重の基準論」の中でお話ししました。
その記事でもお話しましたが,故芦部先生は,アメリカの判例法における「二重の基準論」を日本にも導入するべきであると主張され,その研究に生涯を捧げた方です。その芦部先生が,日本では,裁判所は国会や行政の判断を尊重し,それらの憲法適合性の判断を抑制的にするべきではないか,との見解がまだ支配的だった時代に書かれた論考で,以下のように述べられています。
芦部信喜『憲法訴訟の理論』(有斐閣)22頁
「憲法裁判における最高裁の象徴性と権力性の相関関係は,別の見地からいえば,裁判所の憲法解釈の前提条件として,憲法が時代と社会の変転に応じて変化する『生きた思想の皮袋』だという観念を認めなければならないことを意味する。
そこで,この『生きた憲法』(living constitution)の思想からみた司法審査のあるべき姿に考察の眼を転じてみたい。」
芦部先生は「憲法は生きている。私達は『生きた思想の皮袋』である憲法に,社会の変化に応じた意味を与えていかなければならないのだ。」といわれるのですね。
憲法そのものは,シンプルな文章で書かれた活字にすぎません。でもそこにあるべき社会の姿を見据え,その姿を法に反映させるような解釈を,私達が行っていくこと。それが社会をより良い方向に変えていくのだということ。
ジョン・ロバーツ長官や芦部先生は,私達にそのことを教えてくださっていると思うのです。