クリスマスにケーキを食べられた方が多いのではないでしょうか。今日はケーキのお話です。
古典的なクイズに,次のようなものがあります。
「AさんとBさんが,形が崩れているショートケーキを,二人で分けて食べようとしています。AさんとBさんが喧嘩とならないように,ショートケーキを分けるには,どうすればいいでしょうか。」
このクイズの模範的な解答とされているのは,
「一方がケーキを切り,もう一方が先に選ぶ。」
というものです。
どんなに形が崩れているケーキでも,二人の一方が,自分がこれで半分だろうと思うところでケーキを切り,もう一方が先に取るようにすると,喧嘩にならない,というわけです。
この問題そのものは,とてもシンプルで,まさに古典的なクイズなのですが(有名なクイズ本『頭の体操』(カッパブックス)にも同じ問題が収録されています),実はこの問題は,「手続的な公平」という,とても興味深い問題を含んだものだと思うのです。
裁判そのものは,民法などの実体法上の権利・義務関係を争うのですが,訴訟の手続そのものが不公平であるならば,そこで出される判決は,とても社会の信頼を得ることができないのです。
手続の公平は,いわば実体の公平と両輪の輪として,私達の社会を支えている,と言っていいと思います。
実は,以前にもご紹介しました私の愛読書の,道垣内正人『自分で考えるちょっと違った法学入門[第3版]』(有斐閣,2007年)1頁以下には,ケーキの分け方を題材にして,「公平な手続」とは何かについての,考察が行われています。
道垣内先生は,兄弟二人で形がくずれたケーキを分ける事案を題材にして,この問題の解決には,6つの方法が存在するのではないか,と指摘されています。
まず第1の方法は,「お兄ちゃんなんだから,我慢しなさい」と言って,弟に全部あげてしまう,というものです。
しかしながら,道垣内先生は,この第1の方法は表面的には紛争解決となるであろうけれども,年齢が上であることと,ケーキに対する受容の大小は関係しないので,この解決方法はあまりに合理性を欠く,と指摘します。
そして,仮に母親がそのような解決方法を続けていると,いずれ判断を受ける兄弟の信頼を失い,母親の言うことを聞かないという,革命が起きるのではないか,とされるのです(同書3-4頁)。
第2の方法は,早く見つけた方が全部食べる,という解決方法です。
実際に,日本の民法では,誰の物でもないものは,早く見つけて所有の意思をもって占有すれば,その人の物となる,と定められていますし(239条1項),国際法でも,先に新しい土地を見つけた国が,その領有権を取得するという「先占の法理」というルールが存在しています。
でも道垣内先生は,そのような早いもの勝ちという紛争解決方法は,いかにも原始的であるし,一度母親がそのような解決をしてしまったら,翌日から兄弟は競って冷蔵庫を頻繁に開けておいしいものを探すようになり,母親が困る,という指摘をされています(同書4-6頁)。
第3の方法は,じゃんけんをして,勝った方が全部食べる,もしくは,じゃんけんで勝った方が好きな方を選ぶ,という解決方法です。
でも道垣内先生は,じゃんけんというのは,確かに公平ではあるが,ルールとしてあまりに原始的であるとの指摘をされています(同書6-7頁)。
私作花が個人的に思いますのは,じゃんけんというのは一見公平のように見えますが,毎日じゃんけんをしていっても,必ず公平な結果となるわけではありませんし(世の中にはじゃんけんに強い人もいます),さらに1回だけの解決方法としてじゃんけんを用いますと,結局その1回でケーキという利益を独占する方と,一切利益を得られない方が生じて,その後の社会秩序に悪影響を与える可能性があると思います。
公職選挙法95条2項は「当選人を定めるに当たり得票数が同じであるときは,選挙会において,選挙長がくじで定める」と規定しております。これは,いわばじゃんけん的な要素を,法律上の手続として定めていると言えると,道垣内先生は指摘されるのです。
第4の方法は,ケーキを切る役割を果たす第三者を選び,その人の切り分けた結果には文句を言わない,という解決方法です。
実は,これと同じ発想なのが,法律上の仲裁制度です。仲裁は,当事者間の紛争を裁判所で解決するのではなく,当事者が選んだ仲裁人に解決してもらう,というものです。
当事者は,仲裁という手続を選ぶかどうか,さらには仲裁人を誰にするかについて,自由ではあるものの,一旦その手続を始めることを選択した以上,その仲裁人の判断には,裁判の判決と同じ効力が生じます(仲裁法45条1項)
そのことからもお分かりいただけると思いますが,この第4の方法の最大の問題点は,第三者の判断に委ねる,という点に,両当事者が合意しなければならない,ということです。その合意ができない以上,この解決方法を用いることはできないことになります。
第5の方法は,兄弟間で,一方がケーキをすべて得て,その代わりそのケーキを得る方は,もう一方に対し,ケーキに代えて,自分の集めているカードや,テレビのチャンネル権などを譲渡する,という取引による解決方法がある,と道垣内先生は言われます(同書10頁)。
ただ,この方法も,その取引について兄弟の合意が成立することが必要でありまして,ケーキに代わるような存在がなければ,紛争の解決方法としては成立しない,ということになりますね。
そういうことでありまして,結局第6の方法として登場します,上述しましたような,兄弟のうち一方がケーキを半分に分け,もう一方が好きな方を選ぶ,という解決方法が,社会にとって,色々な側面において,最も公平な紛争の解決方法である,ということになるのです。
道垣内先生は,仮にこの第6の方法で,どちらがケーキを切るのかでもめた場合でも,その場合にはまずケーキを任意に二つに分け,兄弟がそれぞれその半分のケーキについて,切り分け係となればいい,とされているのです(同書13頁)。
道垣内先生は,兄弟とケーキのという,とてもシンプルな題材を問題にして,社会において発生した紛争につき,それをどう解決するか,という手続の公平がどれだけ大切なことなのかを,私達に伝えようとされたのだと思います。
さて実は,社会の紛争解決における,手続の重要性を感じることができる,ある学説があるのです。もう亡くなられた,民事訴訟法の大家である兼子一博士の立場です。
兼子博士は,民事訴訟制度は何のために存在するか,国は,いかなる目的を実現するために民事訴訟制度を設営したのかという点につき,それは権利を保護するためである,とする立場(権利保護説)を批判して,民事訴訟制度の目的は,紛争を解決するためである,と主張されました(紛争解決説)。
そして,兼子博士は以下のように,言われるのです。
「権利保護説という立場は,言うならば,民事訴訟制度という紛争解決制度が成立する前の段階から,実体的な権利が存在していた,その権利を規定している私法のために民事訴訟制度があるのだ,という立場である。
しかしながら,歴史的に,法制史を見てみると,実は,実体的な権利が社会において認識されるよりも前に,民事訴訟制度は存在していたのが歴史的な事実である。古代社会においては,実体法,私法の整備などされていない段階でも,盟神探湯(くがたち)など,紛争の解決制度は存在していた。
そのような紛争解決制度が用いられることによって,その制度のプロセスにおいて,事後的に,『権利』が認められてきたのである。
つまり,私法が未発達は時代にも民事訴訟制度は存在し,紛争解決制度として機能していたのである。
むしろ私法は,民事訴訟による紛争の解決を統一化し,それを合理化するために,これに遅れて発達してきた規範なのであるから,私法のために民事訴訟があるという権利保護説は,手段と目的をとりちがえている。」
そして兼子博士は,この「権利,私法の成立の前に,民事訴訟制度は存在していた」ことを強調されて,訴訟手続を経て,判決が出されることにより,初めて権利は実在化するのだ,と主張されるのです。これを,権利実在化説と言います。
つまり,兼子博士は,訴訟手続を経ていない段階の「権利」は,未だ「権利」そのものではなく,「権利の仮の姿」,「権利の仮象」にすぎないのだ,とされるのです。
この権利実在化説は,長い間,学会の通説となりました。私達が「権利」であると考えているものは,実は「権利の仮の姿」にすぎない,というのは,とてもショッキングな立場ですね。でもこの兼子博士の立場は,社会における紛争の解決において,その手続がいかに重要かを,私達に教えてくれるものだと思うのです。