プロの将棋棋士に,村山聖(むらやまさとし)さんという方がいらっしゃいました。1969年に広島県で生まれた方です。羽生名人を中心とした,いわゆる「羽生世代」の一人と言われた実力者です。




村山さんは,五歳の時に,腎臓の難病である「ネフローゼ」に罹患していることが分かりました。小学校には入学したものの,体調が悪く,その後は病院の院内学級で過ごします。その院内学級では,仲良くなった友達が亡くなることが数回あったそうです。




村山さんは,その院内学級で将棋に出会います。村山さんは,院内学級の友達の直人君から,「将棋は宇宙のようなものだよ。81マスの中に,無限の駒の組み合わせが現れるんだ。一度だって同じ将棋はないんだ。」と教わります。でもその後,その直人君も,病院で亡くなったのです。




村山さんは,将棋に夢中になります。それは,将棋そのものの面白さに魅せられたこともありますが,将棋は,もうだめだと思っても,「生き残る道」が残されていることに引かれたのだ,とも言われています。




村山さんは,体に障るから,と何度注意されても将棋を止めようとはしませんでした。




1981年の小学生将棋名人戦(全国大会)に出場し,3回戦で,後に名人となる佐藤康光と対局し,敗れています。でも村山さんは,将棋のプロを夢見るようになります。




村山さんの体調を心配する周囲は,プロの養成機関である奨励会への入会を思い止めさせようとします。でも村山さんは,おそらく自分には,名人を目指す時間が長くは存在しないことを悟っていたのかもしれませんが,師匠探しを続け,その後プロの森信雄氏の弟子となるのです。さらに,1982年には奨励会への入会試験に合格し,プロ入りへの第一歩を歩きだします。




時には40度を超える熱が出たという体調の悪い中で,それでもプロ入りを諦めない村山さんと,その村山さんの看病もしながら,何とか夢を叶えさせてあげようとする森信雄氏との師弟生活の様子は,大﨑善生『聖の青春』(講談社文庫,2002年)で読むことができます。





村山さんは1986年に念願のプロとなります。奨励会に入会後,わずか2年11カ月でプロとなりました。奨励会入りからプロとなるまでのスピードは,羽生名人や谷川永世名人よりも早いものでした(しかも村山さんは,体調を崩して不戦敗となることがあったにもかかわらずです)。





プロ入りをした村山さんは,その後多くの対局を行います。プロ入りをした人の最大の目標は,もちろん名人なのですが,村山さんはいつも「早く名人になって,将棋を辞めたい」と言っていたそうです。それは,自分は名人になるための時間が限られていることを感じていたから出た言葉ではないか,と言われています。





1989年6月15日には,二十歳の誕生日を迎え,村山さんは,麻雀をしていた師匠の森に,二十歳になったことを伝えに行ったそうです。二十歳にはなれないのではないか,とも言われていた村山さんは,よほどそれが嬉しかったのだと思います。





1990年には,若獅子戦で,小学生の時に敗れた佐藤康光氏を破り棋戦初優勝。




1992年には王将戦の挑戦者となり,敗れたものの谷川王将と七番勝負を戦いました。1996年には,早指し将棋選手権で優勝しています。




そんな村山さんに,膀胱ガンが見つかったのは,1997年のことでした。手術をしたものの,その後再発が見つかります。




1997年度のNHK杯では決勝まで勝ち上がり,決勝戦で羽生名人と対戦します。決勝戦は羽生名人に敗れ,準優勝に終わりました。そして,この対局が,村山さんと羽生名人との最後の対局になりました。村山さんと羽生名人との通算成績は,6勝7敗でした。




村山さんは,もうこの頃には,地下鉄の階段を上がることができない状態だったと言われています。




1998年3月の最後の対局を5連勝で終え,名人への挑戦権を得る資格を得る可能性がある順位戦A級入りを決めた後,村山さんは将棋界を離れ,入院生活に入ることになります。1998年版の「将棋年間」での村山さんのプロフィール「今年の目標」の欄には,「生きる」と書かれていました。




故郷の広島大学病院に入院していた村山さんは,入院中,自分のベットの周りに,多くの時計を並べていたそうです。その時計が動いているを見て,時を刻んでいるのを見て,自分はまだ生きている,時間がまだある,と思われていたのかもしれません。




村山さんがこの世を去ったのは,1998年の8月8日でした。享年29歳でした。





村山さんの言葉に,「人は,与えられた時間の中で,最善手を探さなければならない」というものがあります。





その言葉は,大会によって持ち時間が異なる将棋ですが,プロであるならば,その与えられた持ち時間の中で,最善手を探さなければならない,時間がないことは言い訳にならないのだ,という意味であると同時に,村山さんの人生そのものの残りの時間で,自分が満足できるような最善手を探したい,どんなに短い人生で終わったとしても,満足できるようなことをして,そしてこの世を去りたい,という意味のようにも思えます。




プロの棋士の方々もそうですが,法律家も,さらにはこの世に生を受けた人は皆そうだと思うのです。





人は与えられた時間の中で最善手を探さなければならない。たとえそれがどんなに短い時間であっても。





そしてそれは,決して与えられた時間の中で,いい結果が出ればいい,というだけでないと思うのです。





「最善手」とは,結果ではないように思うからです。村山さんは,私達に,人生という限られた時間に向かう姿勢を教えてくれたように思います。





村山さんが見ることができなかった21世紀を,私達は生きています。





私は法律家として,村山さんから「そんな生き方は最善手ではないよ。僕ならもっと良い時間の使い方をするけどね。」と言われないように,精一杯,与えられた人生を生きたいと思います。そして,法律家として,社会で発生した事件に向き合いたいと思います。





私も村山さんのように,与えられた時間の中で,社会における最善手を探したい,と考えているのです。