「MONSTER」や「20世紀少年」を書かれた漫画家の浦沢直樹さんに,「PLUTO」という作品があります(2004年,小学館,全8巻)。



「PLUTO」は,手塚治虫さんの作品である「鉄腕アトム」に含まれた「地球最大のロボット」という作品を,浦沢直樹さんがリメイクしたものです。朝日新聞が選定した2000年から2009年までの「ゼロ年代の50冊」に,漫画で唯一選ばれた作品が「PLUTO」です。



「PLUTO」は,2003年に開始されたアメリカによるイラク戦争類似の紛争を背景として,自分たちの利便のために,人にできるだけ近いロボットを作り出した人間と,「喜び」や「悲しみ」という感情を有しないけれども,でも人と同じようにそれを感じたいと考えているロボットとが,人やロボットを消そうとする存在に立ち向かい,またそのような人とロボットが共存していける社会像を模索する内容となっています。







その「PLUTO」の第3巻に,ロボットの裁判官が登場します。ドイツ司法局のノイマン判事というロボット判事で,グライフェルト被害者訴訟や,アイケvsへブナー事件等で画期的な判決を下したことでも知られる,とされます。



作品では引き続き,ノイマン判事,そしてロボット判事について,次のような賞賛が送られています。ノイマン判事は,人間の判事にも成し遂げなかった画期的な判決を下した,ロボットには感情がないので,感情だけが基準になる人間の陪審員制度に比べて公正である,冷静な立場から情状酌量もできる。








確かに考えてみますと,高性能のコンピューターを内蔵したロボットが裁判官をするとした場合,現在に存在する法規範や,過去に存在した判例を,すべて瞬時に探し出すことができるばかりか,それらの解釈が展開されている学者や実務家の論文も,一瞬にして読み解くことができるでしょう。



また,作品でも指摘されているように,感情がないということは,どのような場面においても,公正かつ冷静な判断ができる,ということができるでしょう。



とすると,私たちは近い将来,高性能ロボットに,裁判官を,そして司法権を委ねた方が,社会はより幸せになるのでしょうか。








私は,どんな高性能ロボットが登場しても,そのようなことにはならないと思います。なぜならば,ロボットは心,感情を有しておらず,その一方で司法権の作用において最も大切なのは,現在存在する法規範の知識や,判例の知識,学説の研究そのものではなく,社会の公平,正義,そして不利益を被る人達の心情を感じることができることだと思うからです。



新しい法解釈,判例の登場は,常にそれまでの解釈に対し,新しい社会問題が生じた時に,「この結論は不公平である,不正義である,おかしい」と「感じる」ところから始まります。



そして司法権に求められている「感覚」とは,決して数値化することができないものです。司法権の担い手は,さまざまな社会的要請を感じながら,その上で,あるべき社会の姿を想定し,法を用いて情熱的に社会を動かしていかなければなりません。そのような感覚は,決してコンピューターではできないことでしょう。



「PLUTO」には,心で感じるものとして,痛みや希望があげられています。司法権もそうです。法の形式的な適用の結果不利益を受けている人の痛みを感じることができる人,そして社会はこうあるべきであると提言し,社会に希望を与えることができる人こそが,その担い手としてふさわしいのでしょう。








この点で,とても参考になるのが,元最高裁判事の団藤重光先生が最高裁判事を退官した後にされた講演です(団藤重光「裁判における主体性と客観性」『実践の法理と法理の実践』(創文社,1986年)143-184頁)。



団藤先生は「司法」について,2つの見方を紹介されています。



1つ目の司法観は古典的なものです。団藤先生の講演録から引用させていただきます。



「裁判というものについて,最も古典的な考え方を示したのはモンテスキューでありまして,かれは『裁判官は法律の言葉を発音する口である』ということを『法の精神』の中で申しております。法律にすべて書いてある,裁判官はそれをただそのままに発音する,それだけでよろしい,またそうでなければならないのだ,というのです。要するに裁判官の恣意というものを一切排除しようというのであって,立法府が国民の総意として作った法律をそのままに実現する,それが裁判であり司法である,という考え方であります。」



このような古典的な,裁判官,そして司法による法創造を認めない司法観に対し,団藤先生は司法とはそのようなものではない,とされます。引き続き講演録から引用させていただきます。



「法は裁判を通して実現されるのですが,それは客観的に存在する法を発見し認識するということではなくて,主体相互のぶつかり合いによって社会的に妥当する具体的な法規範を創造して行くことであります。社会が絶えず動いていくものである以上,この創造的活動もまた永遠不断のものでなければなりません。裁判における客観性は与えられたものではなく課せられたもの,しかも永遠に課せられたものでありまして,それは直接には裁判官の,間接には訴訟関係人その他の者の,さらに究極的には法の担い手としての国民一人一人の主体的な努力にかかっているのであります。」



団藤先生は,司法とはそれに関わる方々が,あるべき社会の姿を法解釈に反映させようとする,主体相互のぶつかり合いであって,社会の変化に伴う法規範の創造的活動である,とされます。そしてそれは,永遠不断のものである,とされるのです。



司法権の担い手にとって大切なことは,コンピューターのような情報収集能力ではなく,痛みや希望に満ちあふれた人生を送られている人々,さらにはそれらの人々が構成員となっている社会が求めていることは何かを感じながら,それを法解釈に反映させ,情熱的に社会を変えていくことができる才能なのでしょう。







さて,「PLUTO」に登場するアトムは,痛みや希望を感じることができたのでしょうか。そして人類は,そのアトムから何を学んだのでしょうか。ご関心をお持ちの方は,是非「PLUTO」をお読みいただければと思います。