実は私は,元々は教員になることを考えていて,弁護士になりたいとは思っていませんでした。



ところが,そのような私が法学部に進学してみようかな,と思うきっかけになった本との出会いがありました。



その本は,ソニーからアメリカのジョージタウン・ロー・スクールに3年間留学された経験をまとめられた,阿川尚之『アメリカン・ロイヤーの誕生―ジョージタウン・ロー・スクール留学記―』(中公新書,1986年)です。



私は高校生の時,アメリカの高校に1年間通ったのですが,アメリカの私のところに母から色々な生活雑貨が入った荷物が届き,その中にこの本が入っていたのです。



「法律」というものに,「ルール」「人を縛るもの」というイメージしかなかった私は,しばらくの間その本を読まずに置いておいたのですが,一度手に取り読み始めたとたん,そのあまりの面白さに,最後まで一気に読んでしまったことを,今でも覚えています。



アメリカのロースクールでのエキサイティングな3年間の様子に,すっかり魅了されてしまい,私が法律,法律家に対して有していたイメージは,180度変わることになったのです。



その意味でこの本は,私の人生を大きく変えたことになります。私は今でもこの本を,大切に手元に置いています。現在でも購入することができる本ですので,ご関心をお持ちの方は,お読みいただければと思います。



この本には,契約法の先生としてアメリカの弁護士のダンチグ先生という方が登場します。ダンチグ先生は,講義の合間に学生の方々とバスケットボールをされるような気さくさをお持ちであると同時に,その講義の内容も,とても知的な刺激に満ちたお話をされたそうです。



その中でも,高校生だった私が,最初に読んだ時に大変驚いたことを覚えているのが,ダンチグ先生が,契約法は契約を解除する自由が判例で保障されたことで発展した,という話をされた,という箇所でした。少し引用させていただきます(同書51頁以下より)。




「損害賠償の問題をめぐっては,もう一つハドリー対バクセンデール事件という19世紀の英国の判例を読まされた。この判例は結果損害についての法理を確立した歴史的な判例として知られている。



つまり契約の不履行によって生ずる損害の賠償額は,契約締結時に予測可能な損害の範囲に限られている。それ以上の損害賠償を裁判によって獲得するためには,原告は,被告が契約締結の時点で,そのような重大な損害が生じる可能性を知らされていたことを証明しなければならない,という内容である。


ここまでは,しかし,どこのロー・スクールの契約法の先生も教えるところなのだが,ダンチグ先生は19世紀の文献に細かくあたって,この判例が産業革命のただ中にあったイギリス社会の時代的要請に応えたものであったと論ずる。



『ハドリー対バクセンデールに代表される19世紀中葉の古典的契約法,特に損害賠償のルール確立の意義は』とダンチグ先生は熱っぽく語る,



『契約を結んだ後で,もっとうまい商売がみつかったら,最初の契約を破棄して別の契約を結ぶ自由を商人たちに与えたことにある。たとえ賠償金を支払っても,その方が得だと計算できるからね。一方,契約を破棄された方も,賠償さえ満足になされれば,損にはならない。その結果,社会全体の効用も増大するというわけさ。』。



ダンチグ先生は,経済学のパレート最適の理論まで持ち出して,この古い判例の背後にあるものをわれわれに説明した。

契約を結ぶということは契約を守ることと,単純に考えていた私にとって,近代の契約法の成立は契約破棄を可能にすることから始まったという逆説の展開は,かなりの文化的ショックであった。」





現代契約法は「契約を破棄する自由」から始まった,なんて,とても刺激的ですね。この歴史は,私たちの現代社会における契約法の解釈に,どのような影響を与えるのでしょうか。



1つ話を付け加えさせていただくと,実はダーウィンの進化論(社会環境に適合した者が生き残り,その特徴が受け継がれる,という自然淘汰説)は,それが唱えられた19世紀の産業革命社会(強いものが勝ち,利益を得るという社会)を反映した考えであると言われています。



それに対して,日本の代表的な生物学者の今西錦司教授は,カゲロウのすみわけから,個ではなく種社会に重点を置いた進化論を唱えています。その考えは,えてして個々人よりも社会全体に重きを置く日本社会を反映した考えではないか,とも言われています。



社会思想は,その社会そのものから強い影響を受けるものでありまして,活字にすぎない法律が,現実の社会から影響を受け,その動きを変化させていく様子と重なるように思うのです。