憲法76条3項には,「すべて裁判官は,その良心に従い独立してその職権を行ひ,この憲法及び法律にのみ拘束される。」との規定があります。社会における少数派の方々の人権を保障するため,裁判官は,社会の多数派の意思,裁判所内の多数意見など,何者にも拘束されず,単に憲法と法律にのみ拘束され,後は自らの良心に従って,独立してその判断を行うことができるという規定です。


この規定からすると,例えば長く学者をされた先生が最高裁判所の裁判官になった場合,学者時代に自らが強く主張していた法解釈の立場を,最高裁判所の裁判官として唱えることは当然のように思えます。


しかしながら,ここにとても興味深いエピソードがあります。それは,学者時代にその法解釈を採るべきであると強く主張されてきた方々が,最高裁判所の裁判官となり,実際の事件の中でその問題の法解釈を行う際に,全く反対の立場を採用された,というものです。


まず,刑事法の大家であられる団藤重光先生のエピソードからお話しましょう。


刑法には,60条に「二人以上共同して犯罪を実行した者は,すべて正犯とする。」という規定があります。この規定により,例えば二人で共同してある人の財布を暴行を加えて奪おうと考えて,一人は暴行を加え,もう一人がすきを見て財布を取って逃げた場合,単純に行った行為だけを見ますと,一人は暴行罪,もう一人は窃盗罪となるはずですが,共同して犯行を行ったということで,二人ともに強盗罪の共同正犯が成立するのです。


この規定について,共謀共同正犯は同条により共同正犯となるか,という問題があります。共謀共同正犯とは,犯罪の謀議はしたものの,現場には行かなかった者を共同正犯として処罰する,というものです。刑法60条が「実行した」と規定していることに,共謀も含まれるのか,という問題です。


実は団藤先生は,学者として刑事法を研究されていた際,刑法60条の「実行」は実際に犯罪行為を行うことを言い,謀議だけを行った共謀共同正犯は同条に含まれず,共謀共同正犯を同条で処罰することはできない,と強く主張されてきました。代表的な書物(団藤重光『法学入門』(有斐閣,1973年)144-145頁)では,最高裁判所の共謀共同正犯を肯定する立場は,本来の任務の限界を超えているのではないか,という痛烈な批判をされたのです。


ところが,そのような批判をされていた団藤先生ですが,その後最高裁判所の裁判官となり,実際に共謀共同正犯として起訴された事件を担当された際,共謀共同正犯を刑法60条により処罰することを肯定するに至ったのです。その事件の団藤裁判官の意見を引用してみたいと思います。




最高裁昭和57年7月16日決定における裁判官団藤重光の補足意見

「わたくしは,もともと共謀共同正犯の判例に対して強い否定的態度をとっていた団藤・刑法綱要総論・初版・302頁以下)。しかし,社会事象の実態に即してみるとき,実務が共謀共同正犯の考え方に固執していることにも,すくなくとも一定の限度において,それなりの理由がある。


一般的にいって,法の根底にあって法を動かす力として働いている社会的因子は刑法の領域においても度外視することはできないのであり(団藤・法学入門129-138頁,206頁参照),共謀共同正犯の判例に固執る実務的感覚がこのような社会的事象の中に深く根ざしたものであるからには,従来の判例を単純に否定するだけで済むものではないであろう。


もちろん,罪刑法定主義の支配する刑法の領域においては,軽々しく条文の解釈をゆるめることは許されるべくもないが,共同正犯についての刑法60条は,改めて考えてみると,一定の限度において共謀共同正犯をみとめる解釈上の余地が充分にあるようにおもわれる。そうだとすれば,むしろ,共謀共同正犯を正当な限度において是認するとともに,その適用が行きすぎにならないように引き締めて行くことこそが,われわれのとるべき途ではないかと考える。」



団藤先生は,共謀共同正犯を肯定することを求める「法の根底にあって法を動かす力として働いている社会的因子」が存在するのだ,と言われるのです。その因子の存在を考慮すると,最高裁判所の裁判官という司法権の担い手としては,共謀共同正犯を刑法60条で処罰することはやむを得ない,とされるのです。


もう1つ裁判官の良心に関するエピソードをご紹介しましょう。憲法・英米法の学者であった伊藤正己先生のお話です。


憲法21条は表現の自由を保障した規定です。その1項は「集会,結社及び言論,出版その他一切の表現の自由は,これを保障する。」,そして2項は「検閲はこれをしてはならない。通信の秘密は,これを侵してはならない。」と規定しています。


その21条2項で禁止されている「検閲」に,税関検査(関税定率法が「風俗を害すべき書籍,図画」の輸入を規制していること)が当たるか,税関検査は憲法21条2項に違反するか,という問題があります。


実は,伊藤先生は学者として,税関検査が憲法21条2項の禁止する検閲にあたり違憲であるという立場でした。その伊藤先生が,最高裁判所の裁判官となり,まさにその問題が争点となった事件が最高裁判所に係属した際,税関検査は憲法に反しないとした最高裁判所としての多数意見に対し,最終的には反対意見を書いたものの,税関検査そのものは憲法21条2項に違反しない,という立場に立ったのです(最高裁大法廷昭和59年12月12日判決)。


伊藤先生の学者としての立場と裁判官としての立場の間の心の動揺は,前回のブログ記事でも引用しました伊藤正己『裁判官と学者の間』(有斐閣,1993年)で読むことができます。伊藤先生は,裁判官には学者にはない外在的な制約がある,その一つの制約として,学者の見解と異なり裁判は一種の国家意思を形成する機能を持つものであり,当然にそれだけの慎重さを求められるのだ,と書かれています(同書38-42頁)。


団藤先生は「社会的な因子」が存在すること,伊藤先生は裁判官の判断が一種の国家意思を形成すること,という言葉で説明されていますが,それは,学者としての主張とは異なり,裁判所という司法権の判断は,社会に,そして事件関係者の方々の人生に,直接影響を与えることと無縁ではないと思います。


自らの良心にのみ拘束されるはずの裁判官が,実際の事件では自らの立場とは異なる立場を採用したことは,「司法作用」の特徴を示唆するものではないでしょうか。司法権の担い手は,自らの判断が,社会に,そして喜びと悲しみに満ちた人生を送られている人々の人生に,直接影響を与えることを決して忘れてはならないのです。


言い換えれば,司法権の作用において,その担い手が「私はこう思う」などということはある意味二の次なのかもしれません。司法権の担い手が考えなければならないのは,「どう解釈すれば社会は最も幸せな姿になるのか」ということなのです。それは,上述した憲法76条3項における「裁判官の良心」が,主観的な良心ではなく,客観的な良心であるとされていることと関係していると思うのです。