「人権を保障する」ことを目的として,憲法は制定されています。でも,「人権を保障する」とは具体的にはどのようなことを意味するのか,憲法はそれをどのようにして実現しようとしているのかなど,「人権」とは,一見理解しやすいように思えて,でもとても難しく,奥深いものだと思います。



まず,国会において成立した法律の正当性は,いかなることにより根拠づけられるか,という点について考えてみましょう。



国会議員はどのようにして選ばれるか,といいますと,選挙で多数決で選ばれますね。そしてその多数決で選ばれた国会議員のさらに多数決の賛成を得たものが,法律として成立します。



つまり,国会で制定される法律とは,日本社会における多数意見の現れだということができます。法律は,社会において,唯一その内容を強制することができるルール,規範です。法律上,証拠上の根拠があれば,お金を払わない人の家を競売にかけて売ってしまったり,自分は無罪であると言っている人が懲役刑となってしまいます。



ところが,例えばその法律によってある人,たった1人の人の宗教行為ができなくなり,それが信教の自由を保障した憲法20条に反する,との裁判所の判断がなされると,その社会における多数意見の現れであり,強制力を有するはずの法律が無効となるのです。



それを実現するのが憲法であり,その実現を求める訴訟が憲法訴訟です。それが司法権(裁判所)による人権保障です。



さらに申しますと,国会で法律が成立するには,多数決を必要とするのに対し,裁判所で憲法訴訟を起こすのは1人でもできるのです。



社会の多数意見が,1人の原告の「憲法違反である。」という訴えによって,無効になるのです。つまり憲法による人権保障とは,多数決の濫用を防止することを目的とした制度ですね。より分かりやすく例えると,社会には多数決では決めることができないことがある,と言えるのではないでしょうか。



そのようなことまで,「これは多数決で決めて法律になったから,あなたをも拘束する。あなたはその法律を守らなければならない。」と強制されるのなら,私はこの日本という社会から出て行きます,という事態にならないようにしているわけです。



その意味で社会が社会であることの内在的制約である,ともいえるかもしれません。社会には多数決では決めることできないことがあり,それが人権であり,それを制度的に保障しているのが憲法ということになります。



実は憲法には, 裁判官は良心に従い独立してその職務を行い,憲法及び法律にのみ拘束される,としている規定が設けられています(憲法76条3項)。



人権を保障する,ということは,仮に人権が侵害されている人がたった1人であったとしても,社会の多数派から,その1人の人権を守る,ということです。繰り返しになりますが,それを実現する機関が裁判所です。



とすると,国会の制定した法律が憲法に違反するので無効である,という訴訟を裁判所で審理している際に,その法律を支持する社会の多数派の人達が裁判所に押しかけて裁判官に暴行するなどの圧力をかけようとすると,裁判官が「あの法律は憲法に反するので無効である,との判決を出したら,身が危険になるのではないか。」ということを考えるようになります。すると憲法が人権を保障しようとしていても,それが実現できませんね。



だから裁判官は憲法と法律にのみ拘束されるとされているのです。これを司法権の独立と言います。これを指して「裁判所は人権保障の最後の砦である。」と言う場合もあります。



イメージとしては,司法権は,日本という国,社会そのものから独立しているということになるのです(そしてそれは,決して裁判所という組織体が独立しているだけではないのです。むしろ主眼は1人1人の裁判官が独立であることにあります。)。



これまでにもこのブログに書かせていただきましたが,①国家権限を3つに分けていること,②司法権の作用を法曹三者を3つの役割に分け,それぞれの立場から事件に光を当てるようにしていること,そして,③今回述べましたように,社会には多数決では決めることができないことがある,それが人権を保障することであることなど,法律制度は「完全な人間はこの世には存在しない」ということを前提として作られているのです。



そのとても悲しい現実に気付いた人間は,それでも社会をより良い方向に動かしていくために,現在の法律制度を作った,と言えるのかもしれませんね。