先日の記事「頑張れ!司法試験受験生19~安全配慮義務と論文式試験~」では,司法試験における短答式試験と論文試験において,それぞれの試験ではどのような才能が求められるのかについてのお話をしました。



短答式試験では,条文・判例・通説は「どう」言っているか,ということを,知識としてきちんと把握しているか,そして論文式試験では,判例等は「なぜ」そう言っているか,ということにつき,その思考過程をきちんと把握しているか,という側面が見られるのだ,というお話でした。



「司法試験」は,その名のとおり司法権の担い手を選ぶ試験です。司法権は日々,①条文・判例・通説はどのような立場なのかをまず考え,その上で②社会の変化により,法をどう新しい方向に動かして行くのかを考えます。①が歴史家としての能力であり,短答式試験に対応し,②は予言者としての能力であり,論文式試験に対応している,と私は考えています。



このように考えますと,司法試験の勉強のための教科書の読み方も,それら司法権の担い手に求められる2つの才能を念頭に置いた読み方が,とても効果的なのです。







例えば刑法の著名論点である「無銭飲食」を題材に,ご説明したいと思います。



「無銭飲食」とは,その名のとおり,お金を持たずに食堂等に入り,飲食をすることでありまして,その行為は詐欺罪が成立する,というのが判例の立場です。



「飲食店又は旅館で注文主又は宿泊者が,支払の意思がないのに,その事情を告げずに単純に注文又は宿泊する場合は,その注文又は宿泊行為自体が欺罔行為である」(大審院大正9年5月8日判決)



この「無銭飲食」についての刑法の教科書を読んでみますと,以下のとおりになります(大谷實『刑法講義各論』(成文堂,新版第3版,2009年)252頁)。



「不作為による詐欺は告知義務を必要とするが,作為(挙動)による詐欺行為には告知義務は要らない。例えば,無銭飲食・宿泊による詐欺罪の例であり,支払の意思がないのに人を欺く意思で飲食物を注文し,あるいは宿泊の申込みをする場合は作為による詐欺行為であり,無一物であることの告知義務違反としての不作為が詐欺行為となるのではない(大判大正9年5月8日)。」



上の教科書の記載からは,この無銭飲食の問題につき,判例は「作為による欺罔行為(だます行為)」として詐欺罪が成立する,という立場であること,さらにはそれに反対する立場もあることが分かります。



判例がどのような立場に立っているかを知ること自体は,①歴史家としての能力として必要です。



でも,司法権の担い手に必要なことは,その歴史的な側面を知識として有していることだけではなく,今後新しい問題が生じた時に,その社会問題を法を使って解決することができる能力です。それが②予言者としての側面です。



とすると,この古典的な問題である「無銭飲食」についても,判例はなぜそう考えたのか,という思考の過程を理解しながら教科書を読むと,とても効果的なのです。



この点,判例の思考過程を考えてみますと,判例は例えば食堂に入り「カツ丼をください」と言って注文を行うこと自体が,支払の意思がないのにそれを告げずに注文を行ったのだから,作為による欺罔行為(だます行為)なのだ,と考えているわけです。



では,判例が注文を行うこと自体を欺罔行為と考えるのに対し,それに反対する立場があるのはなぜでしょうか。



それは,反対説は「行為者は『カツ丼をください』と注文しているのであって,『お金を払うからカツ丼をください』とは言っていないではないか。



その反対説の思考につき,いかが思われますでしょうか。行為者の言葉の表面をとらえると確かにそうかもしれませんね。でも,食堂に入ってきた人が「カツ丼をください」と言ったら,それは社会通念として「お金を払うからカツ丼をください」と言っているのだ,と認識されますし,また認識されるべきだと思います。



判例は,そのような社会通念をとらえて,無銭飲食は作為による欺罔行為であり,反対説の言うような不作為による欺罔行為であるとは考えないのだ,ということが分かるわけです。



このように,教科書を読まれる際にも,判例はどう言っているのか,という側面(歴史家としての側面)と,判例はなぜそう言ったのか,という側面(予言者としての側面)をしっかりと把握しながら読まれると,とても効果的だと思いますよ。



受験生の皆さん。あと1ヶ月ですので頑張って下さい。

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